伝える術   3







保健委員会は案の定
先生の手洗い・うがいの有効性に話が及んで
私は上の空で聞き流しながら時計ばかり気にしていた。

思えば、幸村君は私と二人の時には
あまりテニスの話は話題にしなかったような気がする。

それは私がテニスに疎くて聞かなかったせいもあるけど
幸村君が積極的にテニスの話をしなかったせいでもある。

雑誌にも載るほどの全国レベルのプレーヤーだと
私が知ったのだって幸村君と昼食を食べるようになってからだ。

立海大は部活動が盛んだし
加えてどの運動部もそこそこ全国大会の常連校だったし、
だから凄いと言われても立海大の中では当たり前の話のように聞こえた。

興味がなかったと言えばその通りだったから
幸村君が部長になったって言うのもピンと来なかったし、
テニス部のレギュラーだって全員の顔は知らなかった。

それが気付くと今は廊下で、教室で、
会うともなしにレギュラー陣と会うと
幸村君は私がいても普通に部活の話をする。

もちろん私は黙って聞いているしかないのだけど
参謀と呼ばれる柳君には何度か
幸村へ渡してくれ、と部誌らしきものを預かった事もあった。

何となく私までテニス部の関係者みたいに感じられて
その事も少しだけ私は優越感に浸れた。

幸村君の部活をしている姿を見るのは
だから、楽しみでもあった。





間近に広がるコートの数は思ったよりも多かった。

どこが正面なのか、
今目の前にいるのが1軍なのか2軍なのかさえもさっぱりだった。

寒い中好きな人を見守っているだろう集団の数も私の想像以上で、
口々に発せられるメンバーの名前だけが
私の頼りと言うのも情けない感じだった。


 「仁王君だ!
  ねえねえ、今の見た?」

 「仁王君ってカッコイイよね。
  普段はもの凄く面倒臭そうにしてるのに。」

 「それを言ったら柳君だって。
  教室では本ばかり読んでるのに、
  コートの中じゃ別人よね?」

 「何言ってるの。
  それを言ったら幸村君なんて
  中学の時に病気してたって言うのに・・・。」

 「ああ、そうそう。
  一時は復帰できないとか言ってた奴でしょ?
  全然信じられないよね。」

 「立海の中で幸村君が一番強いんだもんね。」



次々と耳に入る彼女たちの言葉は私には新鮮だった。

グリーンのコートの中で何人もの部員たちが
凄まじいくらいの真剣さで打ち合っている。

テニス部の部活動を生で見るなんて初めてだったけど
何となくその異常なまでの緊張感が伝わってくる。

あの中で、幸村君は病気を克服して頑張っているのだろうか?

なかなか幸村君が見つからなくて
一人浮いてる私は、何でこんな所に来てしまったのだろうと不安になった。

この仕切られたフェンスの向こうと
こっち側では世界が全く違うと言う、
それこそそんな事を今更口に出せば失笑を買うだろうと言う
当たり前の事に気づかされて急に気持ちが塞いだ。

高い高いフェンスは
その中で高みを目指す者の願いだけをかなえる空間なのだ。

だから幸村君が願えばそのフェンスはたちどころに低くなり、
自分のやりたい事に手が届く。

このフェンスは決して私の力ではどうにもしがたい物であるのに、
実際に目の前にしなければ分からなかったなんて
何て迂闊だったのだろうと、胃の中に鉛でもぶち込まれたような
憂鬱な気分になった。


 「部活が終わるのを待ってもらって
  そして一緒に帰る、っていうのがやってみたかったんだ。」


幸村君は事も無げにそう言うけど、
今までの幸村君のテニスを見てきた彼女なら、
病気を克服した幸村君を見てきた彼女なら
臆することなくこのフェンスの前で
幸村君を待つ事が出来るのだろうと思う。

でも、私は違う。

幸村君のテニスも彼の情熱も
挫折も新たなる挑戦も、何もかも知らない。

ここにいるファンの子たちより何も分かってない。

今まで感じていた優越感なんてまやかしに過ぎなかったんだ。

それが余計にたまらなく寂しく感じられた。

それなのに幸村君と同じテニス部の一員にでも
なれたかのように思ってしまったなんて!



一歩、また一歩、私の足はフェンス沿いを歩き出した。

歓声が上がるたび私はその声に背を向けるようにして
来た道を戻り始めた。

それなのに歓声はますます膨れ上がる。

もう悲鳴に近いほどの熱狂振りに
少し呆れながら最後にもう一度
グリーンのコートを見納めしようかと思ったら
向こうから真っ直ぐにこちらに歩いて来る人に気がついた。

気がつくなんてものじゃない。

それは見間違うなんてできっこない幸村君だった。

黄色のジャージが眩しいくらいで
しゃんと背筋の伸びた姿勢で大股で近付いて来る。

遠くからでも分かる強い意志を秘めた眼差しが
初めて怖いと思えた。


 「さん。」

私は素直に立ち止まって彼が来るのを待ち構えた。

 「まさか俺に黙って帰ったりしないよね?」

私たちは鉄のフェンスを挟んで向かい合っていた。

幸村君には私が帰ろうと思った気持ちが丸分かりだったようだ。

 「こっちはうるさいから。
  あそこに見える部室の向こう側に入口があるから
  そこから入れる。」

端的に話す幸村君はいつもと違う。

テニス部部長の幸村君と部外者の私。


 「幸村君、私、そこからは入れないと思うの。」

口に出してみれば私の声はわずかに震えていた。

今の気持ちを曝け出すのはとても恥ずかしい。

けれど、のうのうと厚かましく幸村君の隣にいる事は
もっと恥ずかしい事だと知ってしまったから
私はフェンスに近づく事もできない。

 「どういう事?」

 「私、そっちには行けない・・・と思うから。」

幸村君の強い視線を避けるように下を向けば
幸村君はがしゃんと乱暴にフェンスを掴んだ。

 「君が来れないなら、俺がそっちに行くだけの事だよ?」

そうだ、彼にしてみればこんなフェンス、
何の障害にもならない事は分かりきった事だった。

 「だけど、それじゃだめなんだ。」

 「えっ?」

 「俺の実像と虚像がここにはある。
  でもね、俺はさんには本当の俺だけを見てもらいたい、
  そう思っていたんだけど。」

 「それは・・・。
  そういうのは私に言う事じゃないと思う・・・。」

 「何でそうなるかな。
  全く、君って言う人は。
  そこまで言うなら・・・。」


幸村君は両手でフェンスの上の方を掴むと
勢いをつけてフェンスを登り始めた。

まさか本当に乗り越えるなんて思わなかったから
フェンスの上で私に不敵な笑みを見せると
周りの悲鳴も何のその、軽々と飛び降りて来た幸村君に
心底私は驚いてしまった。

 「ゆ、幸村君!
  危ないったら・・・。」

次の瞬間、幸村君は私の手を握り締めると
引っ張るようにして歩き出した。

もうテニスコートの周りは尋常でない雰囲気だった。


 「ねえ、こんな事したら周りが凄く変に思うよ?」

 「変に思うならそう思われたって別にいいよ。」

 「でも・・・。」

 「でも? でも、何?
  今日は俺の部活、見に来てって言った。
  それで一緒に帰ろうって言った。
  君は嫌だとは言わなかった。
  違う?」

幸村君の言う事はいちいち正しい。

正しいけどそんな単純な事ではなくなって来ている。

それは私の方が変なのだろうか?


幸村君は私を引っ張って、とうとうレギュラー専用のコートの前で立ち止まった。

 「ここで待ってて。
  テニスがどういうものかルールなんて分からなくていいから、
  コートの中の俺を見ていて!」

私が返事する前に幸村君はコートに入って行ってしまった。

向こうでは柳君とか仁王君とか丸井君が私たちを見ていた。

私はすっかり観念して側にあったベンチにゆっくり腰掛けた。



2月にしては少し気温が暖かかったのはラッキーだと思った。

そうでなくてはこんな所に1時間も黙って座ってるなんて
罰ゲームなのかと思えるくらい居心地は悪い。

視界の端には明らかに私の事を噂しているだろう集団がいる。

怪訝そうな部員もいる。

ここで幸村君に冷たくされたら本当に泣き出してしまいそうだった。

それでも私がそんな風に周りを気にしていたのは一時で
幸村君のテニスをしている姿を眺めていたら
段々他の事は気にならなくなってきてしまっていた。


幸村君のテニスはとても綺麗だった。

それなのにパワフルだと素人目でも分かるくらい
その打球は早くて豪快だった。

もう夢中だった。

凄い人なのだと、
私の手の届かない、テニスでは凄く高い所にいる人だと
改めて分かったけれど、
それとは別にこんなに素敵な人に出会ってしまったんだと、
心が震えた。

そう、多分テニスをしている幸村君に会ったのが最初だったら
憧れのままで終わったかもしれなかった。

むしろもっと性質の悪い劣等感に打ちのめされたと思う。

今だって住む世界が違う人だと頭では分かっている。

でも私は幸村君を知っている。

普通に他愛もない話をする幸村君を知っている。

テニスをしている幸村君は凄いけど
コートから出てきたら私の知っている幸村君になる。

気取らなくて優しくて
ちょっと照れ屋で、なのに人にお願い事するのは上手で。

幸村君の全部を知らなくても
私の隣にいた幸村君はそういう人だったと知っている。

私は幸村君がもうどうしようもない位好きになっていた。






 「じゃあ、一緒に帰ろうか?」

部活が終わって幸村君は何事もなかったかのように
並んで歩き出した。

隣を歩く幸村君はいつも通りだったから
何か言われるんじゃないかとびくびくしていた私は
拍子抜けした気持ちでふっとため息をついた。

そうしたら幸村君は私の顔を覗き込んで
ニッコリ笑いかけてきた。

 「どうだった?」

幸村君は不意打ちが得意な気がする。

 「テニスしてる俺、君にはどう見えた?」

 「どうって、凄いって思った。」

 「それで?」

 「かっこいいなって思った。」

そう答えながら私は顔が赤くなるのがわかる。

こんな風に幸村君に言わされてるのがちょっとだけ悔しい。


 「有り得ないくらいかっこよかった。」

 「なんだか照れるな。」

 「凄すぎてね、やっぱり私には遠い人だなって思った。」

 「えっ?」

 「誰かが幸村君の事、神の子だって言ってたけど
  大袈裟じゃなくて本当にそうなんだなって納得しちゃった。」

私がそう言うと幸村君が驚いたように私を見たのが分かった。

確かに、幸村君のいるコートの世界は私のいる世界とは違う。

さっきまでは二つの世界を仕切るフェンスがとてつもなく
高く高く感じたけれど、今はそんな風に思ってない。

幸村君がいつの間にか私の所に来てくれる事は
特別な事だと自惚れてもいる。

だけど、幸村君だって意地悪なんだから
私だって素直にすぐには自分の気持ちを言いたくなかった。

そうしたら、幸村君は何だか不機嫌になって
そのまま黙り込んでしまった。

気まずい沈黙に私の方が焦ってしまったけれど
それ以上とりなす事も撤回する事もできず
気付けばさよならの言葉もなく幸村君と別れていた。








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