後ろにも目を
寝坊した。
朝ごはんを食べる時間なんてはなからなくて
身支度すら自室から階段を下りながらで、
遅刻しない事だけで頭が一杯で
もうそれは自分では奇跡に近いくらいの走り込みだった。
昇降口で上履きを出した所で緊張の糸がぷっつり切れた。
吹き出る汗をいい加減に手の甲で拭いながら
それでもまだチャイムが鳴らないことに幾らかの余裕が出て来て
一息つかなければ教室までの階段は
ちょっと足が上がらないかも、なんて思ってため息をついた。
油断どころではない。
もう誰もいないと思っていたからこそ出た深いため息だったのに。
後ろでクスリと笑い声が聞こえて
咄嗟に振り向いてしまった。
「すごい寝癖だね。」
もうもう、何でこんな時に限って
立海大きってのスーパーアイドルに声を掛けられるのか、
目の前の幸村君を見て私は一瞬で固まってしまった。
「それに、今日は眼鏡なんだね。
何だかそれも新鮮!」
それもって何? それも、って?
ああ、寝癖が新鮮なのか?
なんてひとり突っ込みも情けなくなって一気に顔は赤くなる。
コンタクトにする時間もなくて
休み時間に入れようと思ってたから
取りあえず眼鏡を掛けただけなのに。
しかも、凄い寝癖だって言われた。
そんなに酷かったかな。
慌てて髪を撫で付けるも
そんな私の動揺が幸村君には事のほかツボだったようで
今度は思いっきり笑われてしまった。
「もしかして寝坊したの?」
「えっ? …そ、そうだけど。」
普段あんまり話した事のない幸村君だったから
私にしてみればそっちの方が余程びっくりだった。
でもこんな話題じゃなきゃもっとよかったんだけど。
「さんって普段凄く真面目だからさ、
今日みたいにいつもと違う感じだと
やった〜、って感じでさ。」
「はぁ・・・?」
「ああ、そんなに凹まないで。
今日のさん、すっごく可愛いから。」
さらりと褒められても何だか微妙に複雑だ。
まさか寝癖ついたまま慌てて家を飛び出した今の格好が
可愛いと言われるとは思ってもみなかったし、
普段気をつけてる方の私は可愛くないんだ、なんて思ったり。
幸村君って変わってる、そんな風に思ったら
ついと幸村君が近寄って来て私のネクタイに手を伸ばしてきた。
「ほら、ネクタイもちゃんと結べてない。」
「えっ? あっ、だ、大丈夫、自分でできるから。」
そう声を上げたのに鞄を小脇に抱えて
私の背丈に合わせてちょっと屈む幸村君の顔が近くて焦った。
こんな有り得ない展開に心臓はドキドキと走り出すし。
スルリと外されるネクタイの感触に私の頭は沸騰しそうだ。
「ありふれた日常ってつまんないよね?」
もう何を言われても返事もできない。
こんな所を誰かに見られたら噂になってしまう。
そんな事がちらっと頭の中でよぎった。
噂なんてものじゃないよね?
だって新密度を超えてるよね?
幸村君は何とも思わないのかな、なんて思ってると
当の本人は自分のネクタイを外して今度はそれを私の首に掛けた。
「どうせなら今日はとことんイレギュラーにしようか。」
爽やかに微笑まれて、その間にも私の顎の下では
幸村君の手が器用にネクタイを結んでる。
どうしたらいいのか分からないけど
されるがまま、の状態だった。
「はい、できた。
今日はこのままネクタイ交換してようよ!」
「あ、あの?」
「ほら、急がないとHRに今度こそ遅刻しちゃうよ?」
ぽんと頭に手を乗せられてまるで催眠術が解けたみたいに我に返る。
ちょうど1回目のチャイムが鳴るところで
私は慌てて上履きに履き替える。
靴箱をパタンと閉じて振り返ればもうそこに幸村君の姿はなかった。
教室に入ると担任の先生は遅れるらしくて
しばらく自習だと黒板に書かれていた。
朝からすっかり疲れてしまった私は
それでも鞄の中から手鏡を出して寝癖を確かめる。
確かに横の方でくるりと跳ね上がってる髪は
ブラシで梳かしつけただけでは直りそうにない。
諦めて今度は鏡を胸の近くに持って行った。
そこには見慣れないネクタイがもの凄くきっちりと結ばれている。
不可思議な光景に頭痛が起きそうだった。
「どうかしたか?」
隣の席の柳君が普段通りの声で話し掛けてきた。
幸村君とは今まで同じクラスになった事はなかったけど
柳君とは中学から数えれば4年くらい同じクラスになっている。
お互いに成績上位者リストに並ぶライバルとして
毎度試験順位を競う仲だったけど
だからと言って私と柳君は周りが思うほど堅くはない。
柳君も頭に超が付くほどの真面目人間だけど
だからと言って勉強に関する話以外はしないか、というと
そんな事はない。
ただ、どんな話をしていても
周りは私たちが下らない話なんてするはずがないと思ってる。
まあ、柳君は確かに下らない話は好まないけど。
「今日の私、どんな風に見える?」
ばかばかしい質問だと思いながらも敢えて聞いてみる。
柳君は手にしていた文庫本から私の方に視線を移した。
正直寝癖のある髪をじっくり見られるのは恥ずかしいけど
でも幸村君ほどの動揺はない。
「普通じゃないのか?」
「普通?」
不満げに切り返したら柳君はかすかに笑ったようだった。
「いたって健康そうに見える。
が・・・。」
「何?」
「寝坊して寝癖も分からぬほど焦って登校した。
おまけにコンタクトをはめる時間もなくて
家でしか使わない眼鏡を掛けて来てしまった。
というところか?」
あまりの洞察にため息が零れる。
「そうなんだけど。」
柳君を見ればいつも通り乱れた所は一つもない。
完璧だなと思う。
私はふと思いついた疑問を柳君に聞いてみた。
「柳君って真面目でつまらない、って言われた事ある?」
「またそれは藪から棒だな。」
「うん、そうだね。」
でも柳君は呆れた表情は浮かべるものの
結構ちゃんと答えてくれる。
「まあ、しかしだ、つまらない男と付き合う奴はいないだろう?」
「そ、そうだけど。」
「俺も付き合ってる奴を退屈させたことはない。」
断言する柳君に思わず苦笑してしまった。
柳君の彼女とは面識はないけど
きっと可愛い人なんだろうな、と思う。
確か他校の生徒だったような。
「いや、私だって柳君がつまらない人だなんて思ってないよ?」
「なら、が彼氏にでも言われたのか?」
「ええっ?な、何でそうなるのよ?」
「言われたからその言葉を気にしてるのではないのか?」
「私、彼氏なんていないし。」
「だが、男物のネクタイではないのか、それは?」
しっかりと目を見開かれて柳君に突っ込まれてしまって
平静を保とうとしながらも頬は段々熱くなる。
「ちがっ、う、うん、まあ、そうなんだけど。」
「七夕の日にネクタイ交換する意味は
無論知っているんだろうな?」
「えっ?」
「知らなかったのか?」
そう言えば7月になってから男物のネクタイをしている女子がいるな、
とは思っていた。
どうせ意味もない流行り事のひとつかな、
位にしか思っていなかったけど?
そういう話題についていけない時点で
やっぱり私はつまらない部類の人間かもしれない。
まじまじと自分の首から下がっているネクタイを手に取って見れば
柳君は呆れたようにコホンと小さく咳払いをした。
「例えそばにいなくとも
こいつは俺の女だから手出しはするな。」
「へ? な、何それ?」
「そんなような意味だ。」
「ちょ、ちょっと待って。
俺の女ってどうゆう事?」
「そのままの意味ではないのか?」
「ちがう、ちがう!
そんなんじゃないの。
多分、冗談か何かなのよ。」
ネクタイの結び目は固くて緩みもしなくて
全然解けない。
「冗談を言うような奴だったのか?」
なおもしつこく聞いてくる柳君にちょっとびっくりだったけど
まさかお宅の部長よ、とまでは言いたくなかった。
「し、知らないわよ、そんな事!」
本気だとは思えない。
絶対私の事をからかったに過ぎない。
真面目で優等生で通ってる私が寝癖のまま登校して
それがあまりにも面白くてさらに追い討ちを掛けたとしか言いようがない。
イレギュラーな事。
彼はそう言ったんだっけ。
「しかし現にそのネクタイは男からもらった物なのだろう?」
「もらってない。
後で返すもの!
もう、どうだっていいでしょう!?」
畳み掛ける柳君の言葉についキレてしまった。
周りの子が驚いて私たちを振り返る。
ああ、もう、有り得ない。
品行方正、冷静沈着な優等生である私が
朝から大声を出すなんて?
それも自分から柳君に話題を振って置いてこの始末。
柳君が口元に手を当てて笑いを堪えてるのが手に取るように分かる。
私は恥ずかしくなって1時限目のリーダーの教科書を引っ張り出すと
クラスメイトの囁く声に耳を塞ぎ英字に目を走らせた。
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