掌に伝わる温度
その日はたまたまだった。
本当なら部長であるが提出しに行くはずだった選抜合宿のリスト表を
代わりに私が生徒会室に持って行く、ただそれだけだったのに
余計な事というか、やはりどこかでハイになっていた自分を抑えられなくて
ついつい手を伸ばしたのがいけなかった。
「ねえ、これだよね、全国大会の時の…。」
生徒会室には幸村しかいなくて
それがちょっと嬉しくて、でもリスト表を手渡してしまえば、
別段これと言って話す事はなかったから
手近な所で目に付いた、燦然と輝くトロフィーの入っているガラスケースを開けてみた。
女テニは結局ベスト8で終わってしまったから
準優勝とはいえ、その成果は思った以上に立派なトロフィーで
表彰式から遅れて届いたそれには男子レギュラー全員の名が刻まれている。
それをよく見ようと私は不用意にトロフィーに手を伸ばしていた。
けれど真新しいトロフィーは見た目以上の重さで
私は片手でそれを手にしようとした事を後悔したのだけど
時すでに遅く、倒れる形で私の手に収まった金ピカの塊は
私の力では支えきれず重力のままに私も床へと引き付けられてしまった。
床上10センチまではどうにか持ち堪えて私の手の中にあった訳だから、
ゴトリという鈍い音がしたもののさしてひどい落ち方ではなかったと思う。
「!?」
即座に飛んでくる幸村の声に
ころがっているトロフィーの横で座り込んだままの私は
手の痛みを隠すため俯いたまま声だけ明るく笑った。
「へへっ、ごめん、ドジっちゃった!」
「大丈夫か?」
「ああ、うん、トロフィーは大丈夫…だと思う。」
左手でころがっているトロフィーを持とうとする前に
幸村がそれを軽々と持ち上げて元の棚にしまってくれた。
「重かっただろ? 怪我はしてない?」
右手がしびれるように痛む。
派手に落とすまい、と無理やりトロフィーを掴んでいた指は
変な風に力を入れ過ぎたためか今は動かす事が躊躇われた。
突き指だろうか、そう思ったものの幸村に知られたくなくて
のろのろと立ち上がろうとしたら幸村が手を差し出してきた。
そういう所は本当に優しいと思う。
きっとそれは私だけでなく、他の誰かでも同じなんだろうけど。
だから、何となくその手に捕まる事ができなくて…。
「全く、は本当に人がしない事をするよな。」
気づかれてない、と思う安堵感が手伝って私は苦笑しながら
大袈裟にため息をついて自分で立ち上がった。
「なんかそれ、酷い言われようだ。」
「だって、ってあり得ない所で転んだりしてるし。」
「そんなのたまにでしょ?」
「テニスのスピードマシーン壊したのもだったよね?」
「あ、あれは絶妙のコントロールのせいだってば!」
「でも伝説作っちゃったんだよね。」
クスクス笑う幸村の笑顔が眩しい。
笑われたっていい、どんな形にせよ、幸村の記憶の中に
自分という存在がちゃんとある、と思えることが素直に嬉しい。
そしてこうやって気楽に話せる時間を持てるなら
右腕が動かなくなったとしても私は後悔しないと思う。
…って、それは大袈裟だけど。
「あっ、じゃあ私、部活に戻るね。」
「ああ、俺も後から行く。
真田か柳に会ったらそう伝えておいて。」
「うん、わかった。」
ああ、やっぱり私は幸村が好き。
********
ジンジンと痺れる感覚が薄れなくて
私は扉に下げられてる札に思わず舌打ちをしてしまった。
遠回りして保健室にやって来たのに先生は不在、しかも施錠されてる。
女子の部室にはおまけ程度の小さな救急箱しかないから
湿布などという高尚な物はなかったっけ、なんてぼんやりと考えていたら
後ろから柳に声を掛けられた。
「どうした?」
振り返ると柳が少し怪訝な顔をして立っていた。
「ああ、うん、ちょっとね。」
私は思わず柳の顔をじっと見上げて考え込んだ。
そう言えば男子の部室にはかなり立派な救急箱があったっけ。
「ねえ、男子の方って救急箱に湿布、あったよね?」
唐突な質問にもかかわらず柳は淀みなく答えてくれた。
「切らした事はないが、誰か怪我でもしたのか?」
「あー、そういう訳じゃないんだ。」
私は慎重に言葉を選んだ。
柳って信頼の置ける頼もしい奴である事に変わりはないけど
でもその情報網は限りなく幸村と深く繋がっている事に思い当たって
ここで私が湿布を1枚でももらえばそれはたちどころに幸村の知る事になりそうだった。
「今年も予算枠を増やせそうな活躍はできなかったからね、女子は。」
「そうでもないだろう?
全国ベスト8なら十分だ。
というか、予算枠をどうこう言う前に湿布薬ぐらい常備できるだけの
活動費はあったのではないか?」
「あー、まあ、そうなんだけどね。
いろいろと他の事に使っちゃったからさ。」
「他の事?」
「まあ、いいじゃない、女の子はいろいろと物入りなのよ。」
そんなくだらないデータもまさか取る訳じゃないでしょうね、と
私が大袈裟に眉を顰めると、いけないのか?と真顔で聞かれてしまう。
そういう所がなければ柳の事は幸村の次に好きなんだけどな。
「そうそう、幸村は生徒会で少し遅くなるって言ってたよ。」
私は早口で柳に畳み掛けると先に行くね、と柳の返事も聞かずに走り出した。
別に走る必要もなかったのだけど、右手の薬指と小指が
しくしくと疼き出して平気でいられなくなってきていた。
あのまま柳と会話を続けていたらきっと私の視線はたびたび右手に移り、
聡い柳に何事かと新たに興味を持たれてしまうに違いない。
大体、保健室の前で柳に会ってしまったのは最悪かもしれない。
後でこっそり切原あたりに湿布を貰う事もできにくくなってしまったと思うと、
今日の部活はおとなしく球拾いでもするかと自然にため息が出てしまった。
********
今日は後輩指導に徹します、と部長のに告げたら
親友である彼女に思いっきり文句を言われた。
「今度は何をやらかしたの?」
「えっ?」
「幸村がらみなんでしょ?」
「な、何が?」
「またどうせボーッとなってどこかにぶつけたんでしょ?」
は情け容赦なく冷ややかな目で私を見てくる。
なんだか痛みと共に右手が冷え冷えとしてきた。
「ぶつけた訳じゃ…。」
「じゃあ、ころんだ? それとも足の上に物でも落っことした?」
「私、そんなにドジじゃありません!」
ふくれて見せてもには通じない。
「普通はね。
でも幸村がそばにいると必ず何かしでかすよね?
何にもない所で躓く人なんてあんたぐらいのもんでしょ?」
「そう言われたって…。」
「いい加減、素直に告ればいいじゃん。
このまま選抜合宿始まっちゃったらどうすんのよ?」
「か、関係なくない?」
「大有りでしょ?
は自覚ないかもしれないけど、
幸村がそばに近づくだけで躓くわ、意識は飛ぶわ、
練習になんてなりっこないじゃん!」
確かにの言う事はもっともで、幸村が近くにいると
正確なコントロールもホームラン状態になる。
自覚がない訳じゃないけど自分ではどうしようもできないだけで、
何かと幸村にはドジな所だけ見せている訳でそれはそれでとても恥ずかしいのだけど、
だからこそ自分の事を幸村に好きになってもらえる自信も皆無状態。
必死で幸村に追いつきたくて練習量だけは半端なくこなしてきた自信はあっても、
男子テニス部と同日のテニスの試合はことごとく醜態を見せていた。
監督には本番に弱い奴とレッテルを張られ、
校内ランキング戦ではを打ち負かす事ができても
実戦で役立たずな訳だから自分でも情けなくなる。
「すっきりさせれば落ち着くんじゃないの?」
意地悪く笑いかけるの言葉に、
と言ってこの片思いが粉々に打ち砕かれたら
男子並みの練習を続ける精神力ももはや残っていないかもしれない。
「すっきりできないよ…、きっと。」
またジワジワと痛み出した右手を見ながら
とりあえず着替えようと私は自分のロッカーに向かった。
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2008.7.12.