掌に伝わる温度 2
Bコートでは1年生たちが素振りをやっていた。
立海大テニス部では男子ほどではないにしても
女子も毎年かなりの入部者が集まる。
そのほとんどが中学でも名の知れたテニス部や
近隣からの越境によるスポーツ推薦で来る訳だから
1年と言えどもそのレベルはかなり高いものだった。
とはいえ、校内ランキング戦で勝ち上がらない限りレギュラーの座は遠く、
一部の者を除いてはなかなかAコートでの練習を見る事も叶わないのが実情だった。
だから、こうして3年のがBコートで指導する事は青天の霹靂であり、
たとえ素振りのフォームを見てもらう事だけでも
1年にとっては憧れの時間である事に変わりはなかった。
いつも以上の熱気には微笑ましいと口元が緩んでいた。
そう言えばいつだったか、居残ってスマッシュのフォームを見てもらっていた時に
今は卒業してしまった先輩に言われた言葉がふと思い出された。
「さんって…。」
「何でしょうか、先輩?」
「フォームがきれい。」
「あ、ありがとうございます。」
「でもね…。」
「?」
「きれいなだけに、そのフォームを保たないと
威力が落ちるのが欠点ね。
いつもいつも同じフォームで打てれば問題ないけど、
試合ではそうそう自分の思った通りのいい球は来ないわ。
どんな悪玉でも打てる位にならないとね、
それこそフォームなんて関係なく、ね?」
その時はその先輩の言葉がすんなり自分の中には入って来なかった。
フォームさえきれいであればどんな悪玉でも対処できる自信があった。
あの時までは…。
実力が認められて1年女子で準レギュラー入りを果たしたのはと私だけで、
先輩たちはいい刺激になるんじゃないかと
男子テニス部との交流試合にわざわざ私たちを混ぜてくれた事があった。
いつもは誰も取る事ができないようなコーナーへのサービスエースも
私のあり得ないフォルトの連発と
フォームの乱れによる甘い決め球でいい所はまるでないままに
あっという間に試合は終わってしまった。
慣れないミクスドの試合に流された訳じゃなかった。
あがっていた訳でも緊張し過ぎていた訳でもなかった。
しいて言えば自分のフォームにこだわりすぎて何もできなかっただけ。
ただただ、がむしゃらにどんなにかっこ悪くてもボールに飛びついて行けなかっただけ。
だって、どうしたって好きな人の前ではきれいなフォームで
テニスがしたかったから…。
無様な格好で不甲斐ない試合しかできなかった私は
あれから人一倍練習に練習を積んで女子の中では実力はNO.1と言われる様になったものの、
トラウマは日に日に酷くなる一方で幸村がいると思うだけで
テニスはもとより、普段の行動までもミスの連発だった。
そしてとうとう3年最後の試合もいいとこなしで
全国大会準優勝を成し遂げた男子テニス部部長に告白するという
密かな野望もなんとなく私の中で未消化のまま、
想いが膨らむ事も消えてなくなる事もできない中途半端な状態は、
それも仕方ないことだとあっさりと受け入れてしまっている。
このままの状態で選抜合宿に行っても
いい事など何もあり得ない事はわかっているけど
変われない自分を情けなく思いながら、なるべく先の事は
考えないようにしてきていた。
私は痛みの酷くなる右手をじっと見つめながら大きくため息をついた。
どっちにしてもテニスができなかったら
もう諦めるしかないかもしれない…、そう思うだけで。
「…先輩?」
はっと気づいておもむろに顔を上げると
1年生たちが素振りの手を止めて自分の事を心配そうに凝視している。
「な、何?」
「あ、あの、フェンスの向こうで…
男テニの、えっと、幸村部長が呼んでるみたいなんですけど…。」
「っ、ええっ!?」
振り返ると確かにフェンスの向こう側に幸村が立っている。
Aコートを見やればが何やら焦ったように手を振っているのが見えたけど、
今はそんな事より間近にいる幸村の方が問題だ。
意を決して再度幸村を見つめ直せば
あり得ない事に男子テニス部のコートでしか聞こえないような
凛とした凄みのある声がBコートに響き渡って来た。
「1年、何休んでるの?
さっさと素振りを続ける!
今から1000回、さあ、声を出す!」
途端にBコートに緊張が走り、1年生たちは素振りを開始する。
「!
には了解取ったからこっちに来て!」
「えっ?」
「今すぐ!!」
その怒ったような口調に度肝を抜かれ
テンパッタ私はあたふたとコートを後にする。
幸村の不機嫌な理由が全くもってわからない。
わからないだけに返って不安が募る。
「ゆ、幸村、何?」
「…。」
「幸村が遅れて行く事は柳に伝えたよ?」
そう口に出した時に足に何かが当たって私はつんのめるように
前に倒れそうになった。
このタイミングで私はまた転ぶのか、と諦めたその時に
幸村のがっしりとした腕が私の左手首を掴んで引き寄せられた。
「今度は足でも捻りたい訳?」
目の前にある黄色のユニフォームに無意識にしがみつきそうになって初めて
右手の激痛を思い知り私の口から声が漏れてしまった。
「痛っ!」
「やっぱり…。」
両手首を掴まれて交互に掌と甲を見比べる幸村の表情は真剣そのもので
私は言葉もなくされるがままに立っていたのだけど
幸村とのあまりの至近距離に、校庭を10周位したような動悸と
呼吸困難を併発しそうだった。
「何で言ってくれなかったの?」
そう問われても言葉が出て来ない。
そんな私を見て幸村はふっとため息を吐くと
今度は優しい口調で私の顔を覗き込んで来た。
「別に怒ってる訳じゃないんだ。」
「…。」
「俺はが傍目にはそう見えないのにそそっかしくてドジなところも
結構テニスが上手いのに本番に弱くて実力を出せない所も
なんだかすごく可愛く思えてさ、
ついついのことが視界に入ると目で追っちゃうんだよね。」
なんだか妙な具合の話の展開について行けないんだけど
幸村の口から可愛いという言葉が出てきた事が嬉しくて
たったそれだけの事なのに多分顔は十分赤くなってるような気がして
恥ずかしくて俯むけば私の視線はそのまま幸村の手に注がれた。
幸村の長い指は間近で見ると割合骨太で
その手にしっかりと包み込まれてる私の手は
小さいだけでごくごく普通に見えた。
「でも、柳が言うには、はしっかりしてるし
テニスだって普通にやってればシングルスでは
ほぼ間違いなく楽勝だったはずだって言うんだよね。
俺が見に行かなければどの試合も勝てただろうって。
なんかさ、俺が疫病神かなんかみたいに柳が悪く言うからさ、
ちょっとそれは困るなって…。」
「えっ?」
「思ってたりはしてないから。
どっちかっていうと、俺の事意識してくれてるんだなって思う事にしてたから…。」
違うかな?なんて、幸村は私の反応を楽しむかのようにくすくす笑っている。
「たださ、怪我されるのは困るんだ、本当に。
せっかく選抜合宿では一緒にいられるんだし、
俺はとどうしてもミクスドやりたいし。」
だから湿布貼ってあげるよ、と幸村は笑うと
私の左手を掴んで歩き出した。
「ゆ、幸村、私…。」
「俺も好きだから、の事。
全国大会も終わった事だし、これからはオープンで行くよ。」
「い、意味わかんない。」
そう言いつつも幸村の手から伝わる温度は暖かくて
彼の存在が間違いなく私の隣にある事を教えてくれる気がする。
胸のドキドキは全然おさまらないけど
これからはどんなボールが来ても自信持って打ち返す事ができそうだ。
「それにしても素振り1000回は酷すぎない?」
私が思い出したように幸村にそう言うと
幸村はぎゅっと私の手を握り締めて答えた。
「持久走1時間も追加しておいてもいい位だったね。」
「湿布貼るだけなのに?」
「たったそれだけのために俺がここまで来たと思ってる?」
段々見えてきた男子テニス部の部室を前に
私はまたつんのめりそうになった。
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2008.7.21.