掌に伝わる温度 sequel 5
幸村の目に映るはいつもどこか危なっかしさがあった。
何でもない所で躓いたりするのは日常茶飯事で
試合でもふざけてるのかと思う位実力が出せなくて
その後は決まって自己嫌悪に陥って
男子並みの練習に励む頑張り屋さんだった。
柳に言わせると幸村の事が好きだから
幸村がそばにいるという、ただそれだけでは変に意識して
無駄に力むからそれがいつも裏目裏目に出るらしい。
それだけ好かれているのだな、
と他愛もない事だと一笑に付されたものだった。
けれどは幸村と付き合いだしても
幸村に慣れる事なくその初々しさは変わらなかった。
だからつい幸村も手を差し伸べてしまう。
には自分が必要なのだと
そんな風に思える事が嬉しくて
つい彼女が実力を発揮できないのも可愛いで済ませて来ていた。
けれど―。
隣コートで忍足とペアを組むはまるで違って見えた。
燐として気迫さえ感じて
隙を見せぬその表情は大人びて綺麗にさえ思えたけれど
彼女が時折見せる忍足へと向ける視線の中には
とても厚い信頼感が漲っていてたまらなく幸村を動揺させていた。
もちろん忍足との連携が上手くいかなければ
すんなりとAランクには手が届かないと分かっていても
あんなプレイを見せられては恋人と言う立場を持ってしても
忍足に嫉妬せざるを得ない。
バカバカしいと心の中で繰り返してみても
動き出した足を止める事は無理だった。
Bコートはすでに昼休憩に入ったらしく、
コート脇でクールダウンをするペアを覗いては人気がなかった。
忍足は近づいて来る人物が意外過ぎて
思わず眼鏡の縁を持ち上げていた。
「Aコートの奴がこっちに来るなんて
珍しい事もあるもんやな。」
先に声を掛けたのが忍足の方だったのが気に入らなかったのか
幸村は黙ったまま忍足にもたれ掛かっているを見つめていた。
「何か用でもあるんか?
・・・って俺じゃないんやろなぁ?」
心持ち口角を上げて忍足は幸村を見上げた。
けれど幸村の表情からは何も読み取れない。
こういう胡散臭い奴が一番扱いにくい、と忍足は心の中で舌打ちしたが
ここまでわざわざ足を運んだ事を思えば
幸村の心情を推し量るのはそう難しいものではない。
「で?何なん?
黙っとられるとさっぱりわからんのやけど?
さんに用なん?」
「彼女、寝てるんだ?」
幸村はわざと忍足には視線を移さない。
じっとだけを見ている。
抑揚のない幸村の言葉と威圧的な態度は
それでもわざと自身の気持ちを押さえ込んでいる裏返しなのだろうと
忍足はまじまじとこの端正な男の顔を眺めていた。
「神の子も人の子なんやな。」
ぼそりと口に出せば幸村は眉根を寄せて
今初めて忍足の存在に気がついたかのような視線を向けてきた。
その様子も不自然すぎや、と忍足は心の中で笑った。
「何をしたの?」
「あー、そう来るか!?
その質問はまた微妙やねん。
何か俺、無茶苦茶、悪もんみたいで嫌やね。」
茶化すように答えれば幸村の視線は更に鋭くなり
忍足は肩を小さくすぼめると
もたれ掛かってきたの肩に申し訳程度に支えていた手を
ゆっくりと離して見せた。
「そない責めるなや。
不可抗力やって。
慣れない試合展開に全力投球してたんやで?
ましてここの所、あんまり寝てないようやしね。
ほんのちょっと休ませたるのに肩ぐらい貸してやったって
文句言われる筋合いはないと思うんやけど。」
幸村だって分からない訳ではない。
ただの姿を近くで見てしまっては
それを見なかった事にはできない。
自分の気持ちがこんなに不安定になってるのを持て余してる。
それを我慢する気にはなれなかっただけで
忍足に馬鹿にされようが笑われようが
不快な物は不快なのだから仕方がない。
幸村はのそばに寄るとその腕にを抱きかかえて楽々と持ち上げた。
もうこれ以上一秒たりとも彼女を忍足の側に置く事は我慢できなかった。
その潔い行動にもう少し何か言われるのかと構えていた忍足は
呆気に取られたまま幸村の腕の中のを見上げる。
何も知らず気持ちよさ気なの表情は
男顔負けのスピンショットを繰り出す同人物には全く見えない。
「どないするん?」
「保健室に連れて行く。
少しの時間でもその方が休まる。」
「ふーん、そない気になるんか?
わざわざAコートからさんを運びに来たんか?
幸村ってそない女に優しかったんか?」
明らかに幸村がに特別な感情を持っているのは分かっていたが
忍足は意地悪く言葉を続けた。
「ひとつ聞いてもええか?
幸村はさんをどうしたいん?」
「えっ?」
不意を付かれた質問に幸村は驚いた顔をしたが
それは一瞬の事だった。
幸村は探るような視線を忍足にぶつけた来た。
「あー、俺のおせっかい癖なんやけどな。
さんはAランクに上がる事に固執しすぎて
俺に言わせれば、何つうか、痛々しすぎるんや。
必死すぎてな、テニス、楽しいんやろか、とかな
つい思うてしまうんや。
何でなんやろ、思うたら幸村の登場や。
そりゃあ、しんどいわな、相手が神の子じゃ。」
「何が言いたいんだい?」
「俺にもな、彼女くらいおるで?
でもテニスとは無関係な子ばかりや。
お互いがプレーヤー同士なんて理想かもしれんけど
レベルが違うとしんどくなるもんやろ?
片方は必死で追い着こうとする、
もう片方は合わせようと甘くなる。
そういうのん、俺は嫌やねん。」
幸村はそれを聞くといくらか冷めた目で忍足を見つめて返した。
その幸村の表情に忍足は少しだけ焦った。
に彼氏がいないだろうとは思ってもいなかったが
まさかこんな大物が相手になろうとは思ってもいなかった。
さりとて忍足もをミクスドのパートナーとして考えていたから
諸手を挙げて引き下がるつもりはあまりなかった。
「忍足がどう思おうと君の勝手だけどね。
俺は別に彼女に無茶をさせてるつもりはないよ。
まあ、俺がに甘いのは否定しないけどね。」
「そやけどさんは結構無理しとると思うで?
幸村がさんの事、大切に思うてる事は分かるけどな、
ここで出て来られたら里心が出てしまうやんか?
せっかく俺が心を閉ざして精神力の集中を手解きしたったのに
さんの集中力が途切れてしまうやん。
次の試合に支障が出たらどないしてくれるん?」
「支障ねぇ?
そんな事言ってを君のペースに巻き込むのを
この俺が放って置くとでも思っているのかい?」
幸村は強い語調できっぱりと言い切ると、
幼い寝顔を見せるをじっと見つめた。
「それより、次の試合まで時間はどの位あるの?」
「あ? ああ、1時間位は大丈夫や。」
「わかった。1時間経ったらを迎えに来ていいよ。」
「ええんか?」
「別に構わない。だってのパートナーは、今は君なんだろ?」
今は、と言う単語に幸村は力を込めた。
そして当然と言う口ぶりに今度は忍足が驚く番だった。
多少なりとも忍足との仲を危惧したから
わざわざここに来たに違いないのに
を抱きかかえてる幸村は先程とはまるで違って見える。
忍足にはそれがに寄せる、揺るぎない幸村の自信なのだと感じた。
「ただし、あと1試合だけだ。
それ以上は認めない。」
「そ、そない言われてもなぁ。
結構さんとはええミクスドになる思うてんねん。
俺たち相性ええねんで?」
ダメもとでそう食い下がった忍足に幸村は冷笑を零して見せた。
「ねえ、忍足。
君のおせっかいには一応感謝しておくよ。
どうやら最短でAランクに上がれそうだしね。
君がAランクになったらが世話になった分、
礼は俺からさせてもらうから楽しみにしてて。」
忍足の返事も待たずに幸村はくるりと背を向けた。
慈しむようにを抱えたまま堂々と歩き去る後姿は
映画の1シーンを見ているようで思わず見惚れてしまう。
「何や、あれ。
もうすでに妻を労わる夫みたいやんか。」
苦笑する忍足は思わず自分自身に舌打ちをしていた。
付け入る隙は幸村の背中からは全くない事が覗えたからだ。
********
ゲームセット
高らかに響く声には思わず声を上げていた
待って
まだ私、試合してない!
コートから続々と選手が出て行く
あの扉の向こうへ、Aランクのコートへ行かなくちゃ・・・
が走り出そうとすると誰かがの腕を引っ張った
振り返ると忍足が立っていた
まだ諦めてない
お願い
私、向こうに行きたいの
頭を左右に振ると閉まりだした扉に精一杯は左手を伸ばした
扉が、閉まる前に、あそこに―
「?」
懐かしい声のトーンに次第に視野が明るくなった。
伸ばした左手を誰かが握ってくれた感触に安堵してる自分がいる。
まだぼんやりした頭でもそばにいる人が誰かなんて
考えなくても分かって、はゆっくりと声のする方に頭を動かした。
「幸・・・村?」
「うん、俺だよ。
、だいぶうなされてたけど、
気分はどう?」
傍らの椅子に幸村が座っていた。
自分がベッドに寝かされてる状態よりも幸村がそばにいる事の方が不思議に思えた。
けれどどんな天変地異が起こった結末がこの場所だとしても
幸村がそばにいる事がどれだけ嬉しい事か
の目にはじわじわと熱いものが込み上げてくる。
「会いた・・・かった。」
「バカだな。
泣くほどの事じゃないだろ?」
「でも。」
「わかってる。
俺だってこんな合宿になるなんて想定外だった。
に会えなくて俺だって寂しかった。」
ぎゅっと握り締められる左手には思わず泣き笑いの表情を浮かべた。
「ここ、どこ?」
「ああ、保健室。
疲れてどこかの眼鏡野郎の肩にもたれ掛かっていたから
強引に掻っ攫って来た。」
「えっ/////?」
「大丈夫、試合前にはそいつが迎えに来る事になってる。
それより疲れは取れた?
昼食、ここなら一緒に食べられるから
サンドイッチを持って来たけど食欲はどう?」
見れば保健室の机の上にはすでに二人分のトレーが並んでいる。
幸村の手回しの良さにつくづく感心しながらが身を起こそうとすると
幸村がすっと手助けしてくれる。
ありがとうと声に出す前にの唇は幸村に塞がれてしまった。
突然の啄ばむ様なキスは何度も何度も繰り返され
が幸村のポロシャツにしがみつけば幸村はの後頭部を引き寄せる。
もっと近く、もっと近く、
今まで引き裂かれていた距離と時間を埋めるかのように
お互いがお互いを求め合っていた欲求に身を委ねるごとく
キスは段々深いものへと変わっていく。
「ん、ゆ・・・き・・・。」
唇の隙間から零れる息遣いに我を忘れていたけれど
愛しい彼女に呼ばれた自分の名前に気づくと
幸村はやっとキスを止めてお互いの顔を見る位の距離を取ってくれた。
鼻先でくすぐる幸村には困ったように赤面していた。
「ごめん。
が足りなくて。」
そんな風に謝る幸村が再度ぎゅっとの体を抱きしめて来る。
「俺、がそばにいないと
サーブも決まらないんだ。」
「うそ?」
「嘘じゃないよ。
俺、がいないと弱くなるんだなって思った。」
だから早くAランクに来てもらわないと困るんだ、と
幸村はの耳元で小さく笑った。
「は?
俺がいない方が躓かないし
忍足ともいいコンビだよね?」
「えっ?」
「なかなかいい試合だったよ。
この合宿でコンビを組んだばかりなのに
そんな風に見えなかった。
それにのプレイスタイルが違ったよね?
初めて見た気がする。
あれも忍足のせいなんだ。」
いい試合だったと幸村は褒めてくれているのに
なんだか本当にそう思ってないような口ぶりだった。
確かに忍足とは初めてのダブルスにしては相性が良いと思った。
多分それは忍足のアシストがいいからだけど
はさっきの試合にどこか非があったのだろうかと思い返す。
「うん、分かってる。
俺なんかより忍足の方がダブルス向きだって事はね。
忍足には絶対言いたくない事だけど。
ほんとに、・・・の事を思うなら
俺じゃない方がいいのかな、なんて。」
まさか幸村にそんな事を言われるとは思ってもいなかった。
せっかく幸村に会えたと言うのに
目の前に見えていたゴールが一瞬のうちに
遠くに行ってしまったようにには感じられた。
「嫌! 嘘でも・・・そんな事言わないで。」
「・・・。」
「私、幸村と一緒じゃなきゃ嫌だよ?
幸村とダブルス組みたくて頑張ってきたのに。
今になってそんな事言うなんて酷いよ。」
が幸村の胸に顔を埋めたままかぶりを振っている様は
駄々を捏ねた時の幸村の妹に似ていた。
そんなを見るのは初めてだったけど、
でも妹とはまるで違う。
駄々を捏ねてるの言い分は幸村の気持ちを嬉しくさせるものだった。
こんな風にストレートに幸村に縋って来ることなんて
今までなかったから、少しの間傍にいられなかった事は
無意味ではなかったと幸村は安堵した。
じわじわと広がるあったかいものが
多分幸せと呼ばれる感情なんだと思った。
もちろんが自分より忍足を選ぶなんて考えられなかったけど
さっきまでイライラしていた感情はもうすっかりなくなっていて、
ただただ嬉しくて、が可愛くて
どうしようもなくにやけてしまう自分が恥ずかしくもあった。
幸村は自身の気持ちを勝手だなと思った。
「私の方こそ幸村とは釣り合わないんじゃないかって
すごくすごく思ってたんだから。
今だって不安だらけだよ?
でもミクスドやるなら絶対幸村がいいの!
一緒にテニスしたい。
一緒のコートに入りたい。
足手まといかもしれないけど、それでも、私・・・。」
「俺だってじゃなきゃ嫌だ。
足手纏いになるなんてそんな事思ってないよ?
忍足とあんまり仲がいいように見えたから・・・。
意地悪言ってごめん。
不安にさせてごめん。
もう二度と言わないから。」
幸村は嬉しさを噛み締めながらそう謝った。
それなのに顔を上げたの長い睫には
溢れんばかりの涙が溜まっていて
幸村は不意を突かれたように唖然としてしまった。
泣かせるつもりなんて微塵も無かったのに
本当に泣かせてしまったのかと自責の念で
の頬を伝い始めた涙に手を伸ばそうとしたら
は幸村の手を両手で握り締めて自分の頬に当てた。
幸村の手の甲にひんやりと涙が伝う。
「幸村はいつも私に手を差し伸べてくれる。
優しくて頼りがいがあって。
私、この手が大好きなの。
躓いても失敗しても
幸村がいるから大丈夫だって・・・。」
幸村は驚いてまじまじとを見つめた。
「Aランクに上がりたいのも幸村がいるから。
テニスを続けてるのも幸村がテニスしてるから。
でもそんな気持ちでこの合宿に臨んじゃいけないみたい。
跡部君には覚悟が出来てないって言われたし、
忍足君には心を閉ざして集中しろって言われた。
私、もっと強くならなきゃいけないんだよね?
もっと・・・、もっと・・・。」
口元をぎゅっと結んで泣くは辛そうに見える。
しんどい思いさせてんちゃうか、と忍足の言葉が蘇って来て
幸村は深く深くため息をついた。
Next
2009.8.30.