掌に伝わる温度 sequel 2
暦の上ではすっかり秋でも
汗ばむ陽気の中で凌ぎを削る合宿は
体力よりも気力・精神力を問われるような気がする。
繰り返されるランキング戦でどんどんランクを上げても
合宿所ではさっぱり幸村と会えない。
幸村の影さえ見ることがなくて
皮肉な事に私のテニスの調子は絶好調だった。
私と組めば必ずランクが上がるという噂が
実しやかに歩き出してなぜだか他校の男子に一目置かれてしまっている。
でもそれらは全然嬉しい事ではなくて
幸村に会えない寂しさで私は睡眠不足が続いている。
何もない所で躓く事もなく、コート内でミスをする事もなく、
コーチにサービスエースを褒められても
一つも楽しいテニスができていないのだ。
「久しぶりやね、立海のさん?」
ベンチで靴紐を直していたら
背の高い眼鏡男が馴れ馴れしい笑みを浮かべて立っていた。
「氷帝の、忍足君?」
何度か見かけたことのある顔をまじまじと見上げる形になった。
どうやら今日のパートナーは氷帝の天才と呼ばれる忍足らしい。
「光栄やね、名前覚えてもらえてるなんて。」
「だって氷帝学園は女子部でも人気だったし、
忍足君は有名人じゃないですか?」
「そうゆうさんこそ人気者やで?
毎日ランクを上げてる凄い子がおるゆうて噂になっとったよ?」
「えっ? ぜ、全然、凄くなんかないです。」
「いんや、関東大会の時とはまるで別人のようやね。
確か立海の女子は今年はあんまりぱっとせえへんかったもんな。
何や名誉挽回ゆうところなん?
ま、強い女子と組めれば男子は楽させてもらえるんやから
噂はあっという間に広がってしまうねん。
仕方ないやろね。」
そう言って忍足は暢気そうに笑い声を上げた。
相手に自分の心を読ませない忍足だが
テニス以外ではどちらかというとフランクだと思う。
挨拶するくらいの仲だった筈なのに
その話しやすさは大人びた顔立ちとは真逆のように感じる。
「そんで、今日はいくつランクを上げるつもりなん?」
「そんなこと・・・。」
慌ててラケットを持って立ち上がると
思いのほか忍足に近づきすぎた感じになってしまい
私の目線はもう少しで忍足の胸にぶつかりそうになった。
その角度がなんとなく懐かしくて
きっと幸村なら周りを憚ることなくその胸に
自分を引き寄せたりするんだろう、等と馬鹿な事を
一瞬にしてなぜだか思い描いてしまって、
忍足がふっと顔を近づけて私の事を覗き込むようにしているのに気がつかなかった。
まるで幸村が脈絡なくキスをしてくるいつものパターンを
私は当たり前のように受身でされるがままだったから、
あり得ない忍足との至近距離をぎりぎりまで回避する指令を脳から発する事ができず、
寸でのところで顔を背けたものの顔は真っ赤になってしまったと思う。
これじゃあまるで彼に何かを期待してるかのように思われてしまったかもしれない。
忍足の胸に幸村を重ねるなんて
私、これじゃあ欲求不満じゃないか、とそんな風に思い当たって
何だかますます顔は上げられなくなる。
「何か俺の顔についとる?」
「えっ、う、ううん、そうじゃなくて・・・。」
「こんな美人さんに見つめられたら
テニスの試合なんかどうでもええなあ。」
「お、忍足君、ふざけないで下さい!
私一人じゃ勝てないんだから。」
忍足の気の抜けたような台詞に思わずムキになってしまったら
忍足はなだめるように私の頭をポンポンと軽く叩いてきた。
「何や勝つ気まんまんやな。
そない頑張らんでも、もうええとこまで来てるんとちゃう?」
「忍足君は上を目指してないんですか?」
「あー、目指してへん訳やないで?
ただなあ、可愛い女の子が何や目の下にクマ作ってまで
がむしゃらに突き進まんでもええんちゃうか?って思ってな。
合宿はまだまだ先が長いんやで?」
ほら、周りにはええ男が一杯おるやろ?と忍足は声を顰めて笑っている。
笑われてしまってるけど嫌な感じはしなかった。
何だろう、幸村と一緒にいる時みたいに
肩の力が抜けるような感じがする。
多分この人は余裕でこのランクにいるのだろう。
「でも・・・。」
「さん、真面目なんやなぁ。
もっと楽しいテニスせなあかんって。」
「でも、せっかく選抜合宿に入れてもらえたんだし、
自分の真価を発揮できるところまでやってみたいって・・・。」
「あ〜、ほんまに優等生タイプやね?
俺はのんびり上がろう思うてたんやけど
まあ、ええわ。
ほなら可愛いさんに免じて協力したる。」
「えっ?」
「俺が本気出せば5つくらい飛び級させたるわ。
その代わり、早く試合終わらせたら付き合うてくれる?」
冗談ともつかぬ真顔に返った忍足の表情に
思わず黙りこくったら盛大なため息をつかれた。
そない固く考えとって、と苦笑されて
促されるままに試合コートへと歩き出す忍足に並んだ。
5つもランクアップできると言っただけあって
忍足のテニスは非の打ち所がなかった。
これといった打ち合わせをするでなく
ぶっつけ本番の試合であったのにもかかわらず
と忍足のダブルスはまるで年季の入ったペアのように周りに思わせた。
彼の持つ技の種類の多さにはも舌を巻くほどだったが
忍足の冷静な判断力と
予測をつけさせない緩急のある試合展開に
相手方は完全にペースを乱されてしまっていた。
気持ちいいくらいの一方的な戦術に
味方のでさえ相手に同情してしまうほどで
短時間での決着はコーチ陣も一様に驚いているようだった。
このランクの対戦相手で楽勝できるとは思っていなかったから
コーチに呼ばれて異例のCランクへの抜擢に
は忍足と組めた事をとてもラッキーだと思っていた。
これで、幸村に会えるかもしれないと思うと
試合後の疲れもあまり気にならなかった。
「何か言うてくれへんの?」
合宿所へ戻りながら忍足が聞いてきた。
「えっ? 何をですか?」
「忍足君、凄かったわ〜とか、
忍足君がペアで楽だったわ〜、とか。」
「あっ、う、うん。
忍足君と組めてとても勉強になりました。」
「はぁ?」
そこはちゃうやろ、と忍足は苦笑しながら突っ込んできた。
「あんな、出血大サービスやったんやで?
もっとこう、感動的にっちゅうか、・・・俺に対してぐっと来たやろ?
なあ、何か他にないん?」
「他に・・・ですか?
えっと、忍足君って、こうもっと心を閉ざしてるイメージが強かったんですけど
ダブルスは違うんだなって思いました。
今日初めてペアを組んだのに違和感、なかったし。
サインを決めてた訳でもないのに
どこに打ってほしいのか、次に何をすればいいのか、
凄く分かりやすくて自分でも驚いてる位なんです。
それに明日からはCランクだなんて、本当に感謝してます。
今日はありがとうございました。」
立ち止まってぺこりと頭を下げれば忍足は呆れたように頭をかいた。
「あー、そういう感謝はいらんのやけど。
大体俺、気に入ってる子に心を閉ざしたりせぇへんし。
って、さんの方こそ俺の気持ち、よう掴んでくれてて
何やめっちゃええ気分で試合させてもろうたわ。」
「そんなこと。
忍足君がダブルス経験者だからです。
だから・・・今日はペア組めて良かったです。」
「そうか?
そう言って貰えると嬉しいわ。
俺ら、相性がええんとちゃう?」
満面の笑みで返す忍足につられてももくすぐったい気持ちで顔が綻ぶ。
久々に爽快感の残る試合に今日はゆっくり寝られそうだとしみじみ思う。
そして一気にランクが上がった事では有頂天になっていた。
「なあ、さん。
今日の夕食は一緒にどうや?
俺らもこれでトップクラスに仲間入りや。
これからの事も打ち合わせしておきたいしな。」
「これからの事って?」
「何や知らんのかいな?」
忍足は含み笑いのまま答えてはくれなかった。
シャワーを浴びて着替えると
忍足はわざわざ女子の宿舎前まで迎えに来ていた。
夕飯を一緒にという誘いは確かにしたけれど
まさかこんな所で待たれていようとは思っていなかったから
私は気恥ずかしさで、シャワーを浴びたばかりだというのに
また汗がでてきそうで焦ってしまった。
「お、忍足君、どうしたの?」
「や、ちょい時間持て余しただけや。」
「でも、わざわざこっちまで来なくても・・・。」
「ええって、勝手に楽しんでるだけやから、気にせんとって。」
こんな所、親友のにでも見られたら後で何を言われるか
たまったものではない。
と言っても今日は他の人たちよりも随分早く上がったから
食堂までの道のりで顔馴染みに会うことはなかった。
Cランク以上の食堂は別棟になっていて
しかも内装までもがはっきり言って今までとは
雲泥の差をつけた造りになっていた。
ここまで格差付けする必要があるのだろうか
と思うほどの高級感にジャージ姿の自分たちがまるで似合わなくて、
忍足の、上の奴らの考えてる事はまるでわからん、という台詞に思わず笑ってしまった。
セルフ形態は同じだったけれどメニューの種類は豊富で
あれこれ迷っていると忍足は私のトレーの上に
ポンポンと勝手に皿を乗せてくる。
いっぱしにこれはビタミンが多いとか
鉄分を取るにはこれがいいとか、差し出がましい注釈に苦笑すると
明日も頑張らないかんやろ、と諭されてしまう。
いい意味で忍足はおせっかいやきなのかと
ついついそのペースに巻き込まれてしまっていた。
結局食べ切れなかったら俺が食うから、と忍足が言うから
幾種類もの皿をトレーにのせたまま空いた席を探していると、
前を歩いている忍足がまっすぐに奥のテーブルへと向かうので
仕方なく後をついて行った。
そのテーブルにも豪勢な皿がいくつも並んでいて
やはりどこの男子も食べる量は半端ないのだとそんな事を思ってしまった。
「なんや不機嫌そうやね?」
「あーん? てめぇ、何でここにいるんだよ?」
「酷いなぁ、跡部。
そう言う跡部の方が可笑しいやろ?
まだAランクに上がってなかったん?」
テーブルに着く忍足に対して跡部はキツイ視線で睨んでいる。
明らかに触れてはならない話題のようだった。
私はなんとなくトレイを置けぬまま突っ立っていると
忍足がそれを受け取って自分の横の席へと促してくれた。
「合い席してもかまへんやろ?
俺のパートナーのさん。
彼女のおかげで飛び級して来てん。
めっちゃ楽勝やったで。」
「はっ。お前、正気か?」
「正気やで。
おまけに勝算ありありや。」
まるで値踏みするかのような跡部の視線に
居心地の悪い思いで箸を取る気にもなれず
緊張したまま忍足の言葉に耳を傾けていた。
「俺ら最強のペアやで?
さんは完璧なんや。
悪いけど跡部より先にAランク行ったるわ。」
「偉い自信だな。」
「そうや〜、俺な、あんまランク付けに興味なかったんやけどな、
さんに付き合うちゃろ思うてな。
Aランクやとむさくるしい合宿もなんぼでも贅沢に過ごせるやん。
さんにも愉しい合宿、味合わせてあげたいんや。
久々に本気になれそうやねん。
ええ話やろ?」
「どこが!
おい、お前。」
跡部が急に大きな声を出すから
私はびっくりしたまま跡部の顔を見つめた。
「Aランクに行く覚悟があるんだな?
だが、悪い事は言わねぇ、ここらへんで諦めるんだな。
お前、間違いなく潰されるぞ?」
ガチャンと乱暴に投げ出されたフォークは
勢い余って皿から滑り落ちた。
私は跡部の言っている意味が分からなくて
物騒な忠告ではあったけどその実感はまるで沸いて来ない。
もうあと少しで幸村と同じコートに立てるという
その期待感しか私にはなかった。
ただ分かるのは私一人ではAランクには行けないという事。
私はそっと隣にいる忍足の方を覗いながら
目の前で不機嫌なままの氷帝の部長に答える術を持たず
テーブルの下で自分の指先が震え出したのを感じていた。
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2009.6.22.