素顔に恋して






放課後。

朝の天気予報では夜から雨だと言っていたはずなのに
これから帰ろうという時になってポツリポツリと降り出した。

本降りになる前に帰るべきだと分かっていても
帰る気になれなかった。

むっとした空気をかき分けるように
雨の匂いを含んだ冷気がさぁーっと渡り廊下を吹き抜けていく。

はぼんやりと中庭を見ていた。

と言っても中庭を見ていた訳ではない。

の目には憂鬱しか映っていなかった。


 「さん、どうしたん?」

声を掛けられたのが自分だとは認識できずにいたら
ぽんと肩を叩かれて、ぎょっとなって反射的に振り返ってしまった。

その反応は自然極まりないものだったのだろうけど
確かにいつものらしからぬ表情のままだったから
それを見た相手の方がびっくりしているのが分かって
瞬時には心の中の焦りを隠そうとした。

 「あ、ごめん。ちょっとぼんやりだったね。」

儚く口元に笑みを浮かべたのに
相手の鋭い視線にこれは厄介な奴に捕まったとは緊張した。

 「さんでもそういう顔、する事あるんやね。」

言葉だけなら大した事はないと思うのだけど
彼の漆黒の瞳は今までにない位の力を帯びたまま
の瞳を射抜いて来る。

 「やだな、アホ面見られちゃったな。」

不自然にならないように相手の視線をかわしながら
変な顔を見られちゃった、と照れ隠しのように目を伏せたつもりなのに
相手はそれには全く乗って来てくれなかった。

 「あんなぁ、そないな誤魔化し方されると
  余計気になんねん。」

何で気にするのよ!と心の中で毒づいた。

物憂げな女の子を気に留めて声を掛けたと言うなら
こいつはもう少しへらへらと優しいはずだ。

気を抜くな、と自分に言い聞かせて
いつもの優等生顔で忍足を見上げた。

 「何でもないのよ。
  ただ、ほら、雨が降って来ちゃったから。
  傘、持って来ようと朝は思っていたのに
  忘れて来ちゃったなって、ちょっと自己嫌悪してただけ。」

すらすらといとも簡単に嘘は口をついて出て来た。

心底困っている、そういう素振りで忍足を見返せば
どうしたものかと思案気な彼の真面目な顔に、かえって不安になる。

やがて忍足は柔和な視線を寄越して来た。

 「なら、ちょうどええわ。」

 「えっ?」

訳が分からずに聞き返せば忍足に手を掴まれた。

そしてすたすたと歩き出すから
面食らったは忍足に引っ張られるように歩き出さねばならなかった。

 「ちょっと、忍足君?」

 「傘なら大きいのがあんねん。」

 「や、でも・・・。」

聞き間違いだろうかと訝しげに声を出せば
忍足はクスリと笑った。

 「やって、傘がなくて困ってんのやろ?
  俺の傘で帰ればええ。」

昇降口に真っ直ぐ向かう忍足に思わず付いて来てしまったが
彼が傘だけを貸そうと言うのではない、という事に  
彼が大きな黒い傘を開こうとした時になってやっと理解した。

まさかの相合傘を彼はやろうとしているのだ。

 「あ、えと、ごめんね、忍足君。
  よく考えたら私、傘持ってるわ。
  そう、多分、教室に置き傘があったと思うから・・・。」

けれど忍足はに最後まで言わせなかった。

 「置き傘なんてなかったで。」
 
 「だ、大丈夫。確かロッカーに・・・。」

 「だから誤魔化さんでええ、言うてるやろ?」

 「…。」

有無を言わせずぴしゃりとの言葉を遮る忍足は
靴を履きかえて悠然と傘を差して待っている。

ここで押し問答を繰り返すのは得策ではない。

例え一時噂が立とうともそれ程長引く事もないだろう。

観念するとはおずおずと忍足の隣に並んだ。

雨脚は先ほどよりだいぶ強くなっていて
忍足の大きな傘はそのどの雨粒も跳ね除けているかのように
大きな音を立てていた。

 「置き傘、先週雨が降った時に使うてたな。」

 「えっ?」

 「だから今日はさんのロッカーにはないはずや。」

雨音の向こうから忍足の驚くような言葉が降って来る。

そう言われれば置き傘は家に置いたままだと気付くも、
それを忍足が言い当てるのが不思議でならない。

いや、不審すぎる。

 「そうね、そうだったかも。
  忍足君、よく知ってるね。」

忍足の真意が分からないから差し障りなくありがとうと返す。 



忍足は氷帝学園では跡部の次に人気がある。

関西弁の口調と共に人当たりも優しくて
理知的で大人っぽい風体からは想像しにくい位人好きだ。

同じクラスになって誰とでも気さくに話す彼とは
もちろん何度となく普通に会話をしている。

けれど時々感じる忍足の直接的な視線は
どこか無機質で意味もなく時々怖いと感じる事があった。

だから誰にも分からない位のギリギリの所で
忍足を自分のテリトリーには入らせない努力をして来たにとって
今この距離感は警戒注意報並みの領域だった。

忍足と無難に別れるにはどこがいいだろうかと
必死で考えていたのに、忍足の手は軽々との想像を超えて来た。

 「ちょ、ちょっと、忍足君!?」

 「そない離れてたら濡れてまうやろ?」

 「でも、だからってこの手はないんじゃない?」

抱き寄せるように肩に手を回す忍足を不審げに見上げた。

 「嫌やったら払いのけても大声出してもろても構へんよ?」

それなのに忍足はいたって真面目な顔だ。

どう対処していいか、分からなかった。

優等生的な解答が思い浮かばなかった。

そして気を抜いてしまったその一瞬を忍足は見逃さなかった。

 「そないにいちいち考えながら優等生ぶるのは疲れるやろ?」

は自分が青ざめていくのが分かった。

忍足の事が全く分からなかったのに
見透かされている、というこの一点のみにおいて忍足を理解してしまった。

完璧なはずだったのに、こんなにもあっさりと見抜かれてしまっては
今更優等生のを今迄通り演じる事は出来ない。

素の自分に戻ればいいだけのはずなのに
なぜかは中途半端な表情のまま固まってしまって上手く言葉が出ない。

この期に及んで自分は忍足によく思われたいんだ、と気付けば尚更の事だった。

 「えらく降りよってきたなぁ。
  どこかで雨宿りでもするか。」

忍足の独り言のような言葉にはやっぱり頷く事も出来なかった。














雨宿りに忍足が選んだのがカラオケルームだったのは驚きだったが
容易に個室の空間が得られることを思えばその健全ぶりに笑えるものがあった。

相合傘から解放されれば
自分が彼のペースに巻き込まれていた事をは冷静に分析し出した。

今更学校での優等生を演じるのは滑稽に思えたし、
忍足の前ではそれはもう意味のない事だと諦めの境地だった。

ただ忍足が何を思って下校を合わせてまで
自分にその正体を暴くような真似をしたのかが分からなかった。

適当に選んでくれたアイスティーを口に含めば
忍足が優しく笑ったのが分かっては反対にしかめっ面になった。

 「そないに動揺するとは思わんかったわ。」

 「そうね。」

 「怒ったんか?」

 「怒ればいいの?」

はグラスをテーブルに戻すとソファに背を預けた。

 「そない投げやりに言わんでも。」

忍足がため息をつくのが不思議でならない。

分かってて自分を追い込んで来たのはそっちだろうに、
は忍足から視線を外した。

 「だってそうじゃない。
  私、忍足君に迷惑かけてるつもりはないもの。
  忍足君は天才かもしれないけど
  私は優等生を必死でやってるだけ。
  別に悪い事してる訳でも何でもないでしょう?」

 「ああ、ほんまにそうやな。
  勉強も出来て委員長もやって
  頼まれれば何でも引き受けて
  誰にでも優しいし、気遣いも半端ない。
  先生にも信用されとるし、友達からも信頼は厚い。
  内申点はええやろなぁ。」

 「それで?」

 「何や?」

はむっとしたまま返した。

 「私の弱みでも握ったつもりなの?」

 「そんなんちゃうわ。」

 「じゃあ、何なの?
  人を動揺させて面白がってるの?
  悪趣味ね、忍足君がそういう人だとは思わなかったわ。
  でも、別に優等生ぶってたってどうって事ないでしょ?
  内申点上げるためにやってたって別にいいじゃない。
  大なり小なり誰だってやってる事だわ。
  それとも何?
  頑張ってる人に水を差すのが楽しいとか?
  勉強もスポーツも万能な人には分からないでしょうね。」
  
一気に捲し立てたら手が汗ばんできた。

冷静沈着でいたかったのに
目の前に座っている男の真意がまるで読み取れないから
先制攻撃するしかないように思えた。

どの道、開き直るしかない、とは考えた。

 「そう興奮せんとき。
  俺は別にさんの事をからかうつもりも
  優等生ぶりを暴くつもりもないんや。」

疑いの目を向ければ忍足は目を細めながら
安心しろと言わんばかりの笑みを返して来る。

 「むしろ逆や。
  一生懸命頑張ってるさんを
  俺は可愛えなぁ、と思うとる。」

 「嘘つき。」

 「何で嘘言わなあかんねん。
  俺はずっとさんの事、見て来ててやね、
  その完璧ぶりに、頑張りすぎやな、って心配しとったんや。
  優等生を演じててもええ。
  でもな、この頃のさんは時々楽しそうに見えん。
  やっぱり無理しとるんやろな、
  ストレスはどこで発散しとるんやろ、
  大丈夫やろか、そう思うててねん。」

忍足の低い声はとても穏やかで優しくて
嘘を言ってるようには思えない。

それでもは素直に耳を傾ける気にはなれない。

氷帝学園の女子なら誰でも憧れる男の甘言だ。

そのスキルは女の子になら誰にでも発動してしまう代物に違いない。

人一倍女の子を見ている忍足なのだから
自分の正体に人よりも気付きやすい性分なだけだ。

 「それでストレス発散にカラオケでもしろ、って事?
  バカバカしい。
  大体ストレスなんて溜まってないし。
  そもそも忍足君に心配される意味が分からない。」

 「はぁ、地のさんはなかなか疑り深い上に
  意地っ張りなんやね?」

 「ええ、そうよ、驚いた?
  自分でも学校での自分はかけ離れ過ぎてるって自覚済みよ。
  これで気が済んだでしょ?
  もう学校では私に話しかけないでよ。」

 「何でそうなるん?
  俺はますますさんに興味湧いたわ。」

 「なっ!?」

忍足の言葉に胸の鼓動が苦しくなる。

自分とは別世界の人間だと本能的に避けて来ていたのに
やはり近づかせては行けなかったのだ。

決してこの動悸はときめきとかそういうものじゃない。

顔が熱いのだって頭にきているだけだ。

 「さんは今迄通り学校では優等生でええよ?
  そのかわり。」

 「ほら、やっぱり脅迫するつもりじゃない。」

忍足の言葉に口を挟んだが
忍足は一向に気にしないままゆっくりと次の言葉を口にした。

 「俺の前では素のままでええから。」

 「い、意味わかんない。」

 「俺はさんの味方や。
  学校でも気抜ける場所があればもっと楽になるやろ?
  何か困った事があったら俺が何とかしてやるわ。
  だから、そんなに警戒するんは止めてくれん?」

は唖然としてしまった。



高等部になって初めて忍足と同じクラスになった。

長身のイケメンだと中等部の頃から騒がれていたけれど
大人っぽい雰囲気と理知的な黒い瞳が印象的だと
実際に初めて忍足を見た時には噂通りだと
も思わず感心してしまった程だ。

寡黙なのかと思えば誰にでも気さくに相手するから
いつ彼を見ても彼の周りには女の子たちがいた。

そんな彼の後姿を目にする事はあっても
彼が女の子たちにどんな表情で、どんな瞳の色で
相手をするのかは見た事がなかった。

むしろ無意識に見ないようにしていたのかもしれない。

だから今彼がに向けている瞳が
他の女子と一緒なのかどうかがには分からなかったし、
分からない事で尚更忍足の言葉は信じられるものではなかった。

そんなの表情が面白いと思う方がおかしいとは感じているのに
忍足は屈託なく笑うからますますの眉間には皺が寄ってしまう。

 「かなり不審顔やで?」

 「だって怪しすぎる。」

 「ああ、まあ、正直はええ事やね。」

 「そうやって人の反応を楽しむ訳ね?」

 「そやな。
  そう理解してもろた方がさん的には納得できるんやったら
  怪しいままでええよ。」


優しい眼差しの忍足には面食らったままだった。

忍足にその後駅まで送られ、明日からどうしたものかと思うのに
改札を抜けてが振り返ると忍足は小さく手を振りながらまだ見送っていた・・・。



  
  
   




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