白のままで 1
「ごちそうさん。」
「な、何?」
見上げるとそこには屈託なく笑う忍足が。
頬には生暖かな感触がうっすらと残っていて…。
通り過ぎざまに右頬にキスされたと気づいた時には
もうかの人は悠然と廊下の向こうに消えていた。
「何なのよ!?」
忍足が普段使ってるコロンが今日は違っていた、
なんてどうでもいい事に気がついた割には
忍足の行動の不可解さには頭が回らなかった。
氷帝学園は初等部から大学部までの持ち上がりだったから
忍足とは何度となく同じクラスになった事もあるし、
親友のが幼馴染の宍戸と付き合うようになってからは
テニス部の面々とも随分親しくなっていたけれど
だからと言って頬にキスをされるような間柄では決してなかったはずだ。
忍足を始めとしてテニス部のレギュラーたちは
氷帝のアイドルと言っても過言でないくらい
その存在は大々的で、驚異的だった。
どこへ行くにも何をするにも注目に値され、
女の子たちの憧れの的だったから
ただのクラスメイトならどうって事ないことでも、
ひとたび彼女という地位についてしまうと
憧憬と嫉妬は並々ならぬ対象と化してしまう。
とて忍足に片想いしていた時期はあったものの、
自分の思いを遂げてしまってもその先に見えるものを
全部受け止める自信はなかったし、
リスクを負ってまで彼女と言う地位を手に入れるには
消極的な女の子だった。
だから必然的に今の友達関係でいる事に甘んじていた訳で、
その恋心はにさえ話した事はなかった。
もちろん忍足への接し方だって必要以上に友達らしからぬ事は
徹底的にしないと自らを戒めてきていた。
誕生日だって、義理チョコだって、
何年も自分とは無縁だと言い聞かせてやり過ごしてきたのだ。
なのにこのアクシデントは何だというのだ?
見送った忍足の背中を思い出しながら
は淡い期待を実体化させないよう、
きつく心に封印を唱える。
あれはきっと、向日たちとふざけてやった罰ゲーム。
だから、気にしては駄目…。
********
だけど、それはそんなに簡単に無視できる現実ではなかった。
翌日からは周りの反応が今までとどこか違ってきている事に気がついた。
あれから、クラスの違う忍足に遭遇する事もなかったし、
さりとてあれは何だったのかと誰かに問いただす気もなかったし、
第一あれに対しての忍足の公式発言というか、
に対しての私的フォローもない訳で
としてはなかった事にする位しか手はなかった。
ところがどうやらあの様子は誰かに見られていたようで、
噂は韋駄天の如く校内を駆け巡ったのである。
忍足君とさん、付き合ってるらしいよ、それも隠れて…。
はため息をつくしかなかった。
隠れて…ですか?
確かに忍足への小さな恋心は隠してはいるけれど
付き合ってるなんてデマもいいところ。
そんな噂になったところでちっともいい事なんてないし、
現に靴箱に投げ込まれている非難や嘲笑の
読みたくもない手紙類は増える一方。
忍足と不釣合いだなんてご忠告、
自分が一番わかってる事なんだから。
わかってるのに、わかってるんだから、
なんで他人にその事をわざわざ突き刺さるような言葉で
言われなければならないのか。
は女子トイレの鏡に映る自分の姿を見つめながら呆然としていた。
いい気になってるとか、忍足を誘惑してるとか、
どこをどう間違えればそんな妄想にこぎつけるのか、
呆れて物も言えなくて、ただただ不快な言葉に眉根を寄せただけなのに、
なぜか女子トイレのホースで水をかけられた。
暴力を振るわれなかっただけましな状況なのかとも考えてみたけど、
鏡の中の自分はどう見ても惨めで、
なんで自分が悪くて、水をかけた子達が悪くない側に立っているのか、
この責任を忍足に取って貰いたいくらいだけど、そんな事が出来るはずもなく、
水気を含んだハンカチを絞りながら
これでは午後の授業に出ることも出来ないと
どこにもぶつけられぬ感情は引きつり笑いしか生み出せない。
家に帰るにも帰れず、さりとてこのままの姿で教室に戻って
何食わぬ顔で授業を受けられるほど心臓も強くない。
仕方なくは屋上のドアを開ける。
今日が例年にないくらいの夏日でよかった。
熱いと感じるくらいのコンクリートに直に座ると
スカートの水分がじわじわと染み込む。
ひだの取れかかったスカートにため息を漏らすと
背後から眠そうな声がかかった。
「何やってるの?」
ぎくりと振り返ると、誰もいないと思っていた屋上で
昼寝をしてたらしい芥川がむくりと起き上がってを見ていた。
誤魔化せるとは思えないけど、
確か忍足と同じクラスの芥川に、事の顛末を話す気にもなれない。
はだんまりを決め込んだ。
芥川はどこかミステリアスでは苦手だった…。
「暑いから〜?」
「…。」
「水浴びしたとか〜?」
「…。」
間延びした声が段々近づいて、
それでも無視してるの横に芥川がしゃがみ込んで
の顔を無遠慮に覗き込む。
「…な訳ないよな〜。」
それでも何も言わないでいると、
芥川はおもむろに携帯を取り出すとメールを打ち出した。
「俺さ〜、あんまりこういうのに首つっこみたくないんだよね〜。」
こっちだって首を突っ込んでもらいたいとは思ってない。
むしろテニス部とはかかわり合いたくない。
「でもさ〜、侑士のせいだろ?」
は断定する彼の言葉に驚いて、初めて芥川の横顔に視線を移した。
ふわふわの髪が日にさらされてキラキラ輝いて見える。
さっきまで眠そうだったのに、
手元の携帯を打ち込むスピードは恐ろしいくらい速かった。
「なんかすっげー噂になってるC〜。」
メールを打ち終わってパタンと携帯を閉じると
芥川はぶっきらぼうな言葉とは裏腹に真っ直ぐにを見つめてくる。
「…噂、知ってるんだ?」
「知らない人はいないっしょ?」
いつも眠そうでテニス部の中でもおとなしくて
学園の噂話なんて絶対興味を持たなさそうな奴だと思っていたから
なんだか普通に会話してるのが不思議な気持ちだった。
「芥川君は…。」
「何?」
「どこまで知ってるの?」
の問に芥川は膝を抱えてうーんと唸った。
「何で俺に聞くかな?」
「だって、…他に聞ける人いないし。」
「何が知りたいの?」
「えっと、忍足が…なんであんな事したのかってこと。」
「あんな事って?」
「//////。」
忍足にキスされた事を何でもない事にするつもりだったのに、
こうして芥川に聞く事はやっぱり自分の中で引き摺ってると思うと
口に出す前に顔が熱くなっては俯いてしまった。
「ああ、あれ…。
跡部のくだらない暇つぶしにのっかって墓穴掘ったって奴?」
「えっ?」
「…罰ゲームだったんだ。」
芥川の言葉にやっぱりね、と思いながら
本当にそうだったんだと納得する前にかなり落ち込んでる自分がいた。
午後の日差しはこんなに暑くて、濡れていた髪はもうパサパサな感じなのに
芥川がそばにいなければ涙腺を全開にして泣きたい気持ちだった。
「…そっか。」
「あー、まあ、そうなんだけどねぇ…。」
「あ、いいよ、別にフォローしてくれなくても。
そんな事だと思ってたから。」
「そんな事?」
「そ。だから別に気にしてないし。
人の噂も75日にだから、
夏休みになっちゃえば…。」
「それでいいの?」
「いいも、悪いも私、忍足とは友達だし。」
「ふーん。そんな風には見えなかったけど。」
「えっ?」
トモダチニモ ミエナカッタンダ
芥川君のせいなんかじゃなかったけど、
きっと本当の事を言ってくれてると思ったから
もう堪える事なんて出来なくて
は膝を抱えるとまだ湿ってるスカートに
新たな悲しみの色を加えるのだった。
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☆あとがき☆
ジローってほんと屋上の住人だよ。
いまいち性格は把握してないんだけど
なんかこういう時にこの場所にいそうなんだよな。
2007.6.16,