34.見えない未来 2
「幸村、よかったのか?」
試合前のウォーミングアップに入った赤也を見つめながら
柳が幸村に声をかけた。
「何が?」
「赤也をミクスドに出した事だ。」
「別に。」
「そうか?
は負けるぞ。」
柳は静かにしかしはっきりと言葉にした。
幸村はちらりと柳に視線をくれると僅かに笑った。
「赤也が勝つ、って言わないんだ?」
柳はそれには応えず、自身の記録ノートを広げた。
「にあれを打たせるつもりなんだろう?」
「さあ?」
「とぼけるな、幸村。
赤也がナックルを使うとなれば
が何もしない訳がない。」
「何だ、やっぱり参謀は侮れないね?
でもそれなら赤也の方が負けてしまうことになるよ。」
「やはり、お前はそれを望んでるのか?」
「どうかな。
ただ錦先輩が中途半端に赤也にあれを見せたから。
に本物を見せてもらいたいだけだよ。」
肩を竦める幸村に柳は軽くため息をついた。
イレギュラーな回転が生むナックルサーブの軌道を
赤也は自分でコントロールできていると思っている。
単なる赤也の癖球がその軌道を相手の顔面に向かわせているだけだとは
露ほども思っていなかった。
顔面に向かってくる黄色いボールは
対戦した相手に少なからず恐怖を与える。
同世代の中で赤也が恐れられる理由の一つは
赤也が冷徹である事ではなく
その試合運びをゲーム感覚で楽しんでいる所にあった。
「ねえ、柳。
俺だって入院がなければもっと早く赤也に指導できた。
大体あんなサーブが全国で通用するはずが無いだろう?」
幸村は自嘲気味に笑った。
退院して来てからの幸村に後輩にかまける時間など皆無だった事は
柳には痛いほど分かっていた。
例えそうだとしても
今は他校にいるに赤也の面倒を見させるのは
余りにも理不尽な気がしたからこそ、柳は念を押したのだ。
「しかし。」
「心配ないよ、柳。
はちゃんと分かってくれている。」
「いや、そういう事を言っているのではない。
昨日の試合はにとっても辛かったはずだ。
赤也を精神的に追い詰めるにしても
が持ち堪える事ができるかどうか・・・。」
「柳、それ、本気で言ってる?」
幸村の冷ややかな声に柳は眉根を寄せた。
「君が心配すべきは赤也の方だ。
のナックル、赤也は初めて見る。
柳、君だって本当の凄さは知らないんじゃないか?」
「ああ、そうだな・・・。
はあのサーブを公式で使った事が無いからな。
それもお前のせいなんだろ、幸村?」
「何だ、わかってるじゃないか?
錦先輩がにしか教えなかったサーブなんて、
俺たちのミクスドには必要なかったからね。
大体あの人の魂胆は見え見えだった・・・。
あんなサーブが無くても俺たちは勝てる。
まあ、赤也が欲しがるなんて予想外だったけどね。」
幸村は薄く口元を緩めた。
幸村の横顔を見ながら柳は
未だに幸村が錦先輩の事を良く思ってない事に少々呆れていた。
まあ、錦先輩がに執着したのは
傍目にも先輩後輩の域を超えている部分があるのは分かるほどだったし
もちろん幸村ならず柳たち他のメンバーも好意的には取ってはいなかったのだが。
「なら、尚更なのではないか?
はこの試合で本気で赤也に打てるのか?」
「ああ、多分公式では最初で最後だろうね。
はね、赤也の為に
あのサーブを赤也に渡す為に錦先輩からもらったようなものだ。
赤也がナックルに興味を持った時
一番心配したのはだったからね。
でも口で言ったって聞くような子じゃないし。
いつか機会があれば、うんと効果的に使ってやれって
随分前に言っておいたんだ。
だから、は今日あれを使うよ。」
きっぱりと言い切る幸村に柳はもう何も言わなかった。
********
赤也は呆然と立ち尽くしていた。
ネットの向こう側にいるを凝視しているのに
完全に目の中には映っていなかった。
ぼんやりと目に入ってるのは点差の開いたスコアボード。
そして思い出せるのは鋭いボールの黄色い軌跡のみ。
その軌道は確かにかつて見たOBの錦先輩のサーブだった。
がそれを打つとは思わなかったから驚いたものの、
赤也には返せる自信は100%あった。
ナックルサーブの脅威は顔面向けて弾む弾丸のような球だ。
1本足スプリットを持つ赤也にとって
その反応の良さを持ってすれば
例えどの方向から顔面に向かって来ようと
それを避けてラケットで受けることは容易い事だ。
それなのにのナックルはどこか違っていた。
の手の中でその回転は無造作でありながら
どこまでも赤也の虚を突いた。
「何なんだよ!!!!!」
赤也はがっくりと膝を突くと握り拳を地面に叩き付けた。
走っても走っても追いつけないサーブ。
もう少し、そう思う先にボールは更に飛距離を伸ばし
気がつけば1点も返せないでいた。
の事を赤也はもちろん女子の先輩の中で最も尊敬していたし一目置いていた。
でも自分が負けるなんて赤也は一度も思った事は無かった。
の横には幸村がいて、幸村がいるからこその強さであって
一人に負けるはずはないと高を括っていた。
倒すべきは青学の不二。
ところが試合は完全に赤也対のシングル対決。
それも屈辱的な負け方なのだ。
少しも恐れる事の無い相手なのに勝てる気がしない。
自分が会得したはずの技が偽物であると言わんばかりの
のナックルサーブは錦先輩のそれよりも数段キレがあった。
なぜこんなものが存在するのか?
なぜそれをが隠し持っていたのか?
赤也は混乱していた。
今まで一度だってがそれを使った事など無かったからだ。
「くそっ! 何だって言うんだよ!!」
赤也はこんな恥ずかしい試合をしている自分が情けなかった。
いくらなんでも同じ技で競り負けるなんて考えたくもなかった。
滴る汗を拭い上げ、視線をベンチにくれれば
無言で立つ幸村の姿があった。
負ける訳には行かない。
投げ出されていた自分のラケットを取り上げた瞬間、
赤也は信じられない声を聞いた。
「この試合、僕たちは棄権します。」
頭の中が真っ白になると言う感覚を赤也は初めて知った。
体中がわなわなと震えだしたのが分かった。
けれどコートを離れたを見た瞬間、
赤也の頭に血が上った。
「どういう事だよ、ふざけんなよ!
こんな終わり方、俺は認めねー。
まだ試合は終わってねーんだ。
俺のナックルは負けてなんかねー!!
こんなの、こんなの、ぜってー認めねぇ!!!」
たちを追いかけようとする赤也を後ろから押さえ込んだのは柳だった。
「赤也!」
「ちくしょう!
俺はまだやれる。
バカにすんな!
まだやれるんだ!」
柳に食って掛かる赤也の胸倉を柳は締め上げた。
その驚異的な力と冷ややかな柳の視線に赤也はやっと我に返った。
「赤也。
お前は負けたんだ。
それを理解しろ!
この試合に幸村がなぜお前を抜擢したか、
よく考えてみるんだな。」
「うっ・・・。」
見上げた柳の顔が次第にぼやけて見えた。
頬を零れるように伝う感触に
赤也はこの日初めて悔し涙が熱いものだと知った。
********
「彼に・・・、声をかけなくて良かったのかい?」
不二は泣き喚く無様な後輩に目もくれずコートを後にしたを追いかけた。
「赤也に?」
「そう。
あの様子だと相当恨まれるね?」
「うん。」
言葉少なに生返事のに不二は思わずの腕を取る。
「棄権した事、後悔してるの?」
立ち止まって不二を振り返ったは頭を振る。
「まさか。
私、不二君との約束を守っただけ。」
「そうだね。
でも切原君はまともに試合をしてもらえなかった、
位に思うんだろうね。」
「仕方ないよ。
私の役目はここまで。
後は柳君や真田君が何とかしてくれると思うから。」
幸村の名前が出なかった事に
不二は思わず小さなため息を吐いた。
「それにしてもあんなサーブを君が隠し持っていたなんて、
ちょっとびっくりだった。
まだまだ僕の知らない事がたくさんあるんだろうな。」
「不二君?」
不二の本音に弾かれたようにが不二を見上げる。
「ごめんね、試合に私情を持ち込んで。
でもきっと赤也なら立ち直ってくれる。
もうこれで私が立海大の先輩としてしてあげる事はなくなったし。
不二君だったからこそ我がまま言えたんだからね?」
「ああ、ごめん。僕の方こそそんな事、言うつもりじゃなかったのに。
僕たちはまだミクスド・ペアとしてはひよっ子だった。」
そう言って不二は申し訳無さそうな顔をしたの頭を
くしゃりと撫でてきた。
の胸元にお揃いのペンダントが光ったのが見えた。
「私だってまだ不二君の事、全部分かってないもの。
私たちはこれからだよ?」
「ああ、そうだね・・・。」
のこれからと言う言葉に不二は考え込むような表情で呟いた。
「実はさ、に言っておかなくちゃいけない事があるんだけど。」
不二が言葉を続けようとした矢先、
不二は走ってくる幸村の姿を見つけて思わず口元を閉ざした。
心配げな表情の幸村の様子が分かるだけに
不二はの目と耳を塞ぎたい気持ちに駆られた。
「!」
けれどの耳に幸村の声はしっかりと届いたらしい。
が声の方をゆっくりと振り向くのを不二は遣る瀬無い思いで見つめていた。
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2010.8.26.