32.衝撃
「棄権、って?」
「明日の試合、不戦敗にするって事。」
「何で?
私なら大丈夫だよ?」
「もう決めたんだ。」
不二の言い方はを突き放すように聞こえた。
さすがのもこの不二の態度に一気に頭に血が上った。
「決めた、って何?
何で不二君が一人で決めちゃうの?
私の言い分は聞いてくれないの?」
「言い分って?
痛みを我慢して次の試合も頑張るって事?」
勢いよく返してきた不二の言葉には怒気が含まれているのを感じた。
試合である以上少しのアクシデントはつきものだ。
まして骨に異常があったとか、これ以上テニスをしていたら
選手生命が絶たれてしまうとか、そんな大袈裟な次元ではないのだ。
今日の明日で、完全に何とも無い、と言う状態には戻らない。
そんな事は分かっている。
だけど試合を放棄するような状態ではないはずだ。
「たいした事ないって言ったでしょう?
それに明日の相手は立海の2年。
私にしてみれば赤也の手の内なんて丸分かりだわ。
氷帝の鳳君のようなパワーテニスじゃないし、
不二君が心配するような事は何もないよ?」
「それなら尚更立海大と試合する意味なんてない。
全国大会に行ける切符は手に入ったんだ。
全国大会まで養生する戦法のどこがいけない?」
不二は一向に折れる気配が無かった。
確かに棄権したからと言って全国大会に行けなくなる訳ではなかった。
けれど関東大会で優勝して堂々と全国に名乗りを上げたい、
そう思う気持ちもある。
準優勝では意味がないのだ。
自分の古巣である立海大を不二とが倒す事によって
青学の人たちにも不二とペアでいる事の正当性を
見せつける事もできると思っていたのに、
不二が立海大を避けているように思えて何となくすっきりしない。
「そんなに過保護にしないで。」
「。」
「もちろん手首に負担かけないようにって思えば
不二君に迷惑掛けると思う。
でもそれは不二君を信頼してる訳で。
自分をないがしろにしてる訳じゃない。
棄権の話だってもっとちゃんと納得できるように話してくれれば
私だって・・・。」
「僕は本当に信頼されてるの?
さっきの試合、僕が納得してない事を聞いていいのかな?」
は不二の食い入るような視線にほんの少したじろいだ。
あの時には感じなかったのに、今の不二の瞳の中は
何かを必死で堪えているような揺らめぎを感じる。
不二に信頼されていないのは自分の方?・・・の顔は強張った。
「僕が知らなかったと思ってる?
リストバンドに隠されていたけど
しっかりテーピングされてる君の手首を。
それって僕以外の誰かは知っていたんだよね?
君の手首が悲鳴上げてたって・・・。」
「それは。」
「僕は知らなかった。
気付かなかったのが悪い、って言われれば
そうかも知れない・・・。」
「そんな事・・・。」
「仕方ないよ。
僕より彼の方が君の事を知っているに違いないんだ。
情けないけどそれは認めるよ。
だけど。」
不二はの肩を強く掴んだ。
「もう隠し事はしないで。
そう僕は言った筈だけど?」
「あっ。」
は不二が自分と幸村が会っていた事を
やはり知っていたんだと悟った。
不二が自分たちの姿を見ていなかったのなら
言わなくても良いだろうと思っていた事が間違いだった事に気づいた。
手首に違和感があった事もきちんと話すべきだったのだ。
「不二君、ごめん。
私が・・・。」
「きつい事言ってごめん。」
不二はの身体を優しく抱きしめた。
の肩に顔を埋めると首筋に不二の暖かな吐息がかかった。
不二がため息を付いて自分の感情を抑えたのが分かった。
「やっぱりヤキモチにしか聞こえないよね?」
「ううん、そんな事。
私の方が悪かったんだもの。
言ってくれてよかった。」
「ごめん、僕も言いすぎた。
包容力はあると思ってたんだけどね。」
「ううん。
私がちゃんと言うべきだった。
手首に違和感があったことも、
あと、幸村君に会った事も。」
「いいんだ、もう。
こうして今僕の腕の中にいるんだから・・・。」
仲直りのしるしに不二はそっとの頬にキスをした。
そして今度はゆっくりと来た道を並んで歩き出した。
ぎゅっと繋がれた手が気恥ずかしかったけど
はなすがままに連れ立って歩いた。
不二は家まで送ると言ってくれたが
お互いに明日も試合がある身だからとは不二と駅で別れた。
そういう所はも割合意固地になってしまう。
常に対等でいたい思いは充分不二も理解してくれている。
不二だって今日の試合で疲れていないはずがない。
だから「ここでいいよ。」と切り出せば不二も
それ以上は言って来なかった。
まだ少しだけ痺れるような感覚はあったが
医務室ですぐに処置をしてもらったせいか
手首の違和感は試合の時よりはずっと良い。
結局明日の試合、棄権するつもりはなかったが
万一試合中にの手首の痛みが増すようであれば
あっさりと試合放棄するつもりだと不二の考えも頑なだった。
先に控える全国大会を思えばも、それも仕方ないかと思う。
とにかく今日は早く休もう、は自宅の玄関を開けた。
2階の自室へ上がる前にリビングを覗くと
そこには夕方とは言え、こんな早い時間におよそいた試しのない
父親が新聞を読んでいる姿に少しだけ驚いた。
思わずテニスバックを階段の影に置くと
はリビングの戸口から顔だけ覗かせて父親に声を掛けた。
「ただいま。」
「ああ、お帰り。」
制服姿で良かったと思いながら引っ込もうとしたら
父親はを呼び止めた。
「。」
「はい。」
「ちょっとこっちに来なさい。」
新聞から目を話さない父親を訝しく思いながら
は包帯の巻かれている右手を後ろに隠した。
「父さんが昔、立海大でテニスをしていたのは知っているね?」
「・・・はい。」
「お前に小さな頃からテニスを教えてきたのは父さんだった。
だからお前が立海大でテニス部に入ったと聞いた時は
それも仕方ないかと思った。」
父親は新聞を畳むとテーブルの上にゆっくりと置いた。
それがスポーツ新聞だったと気付いては狼狽した。
「テニスをしてはいけないと言っているのではないよ、父さんは。」
「はい。」
「ただ、お前は青学に転校する前にテニスは辞めたと言っていたね。
それなのに隠れてテニスをしているらしいじゃないか。」
「別に隠してる訳じゃないです。」
「嗜む程度なら私も黙認するつもりだった。
お前は知らないだろうがテニス連盟には知り合いも多くてね。
聞かなくとも私に色々教えてくれる人がいるんだよ。
どうやらお前はなかなかいい戦績を作っているらしいね?」
父親の淡々とした言葉には酷く冷たいものを感じる。
子供の頃はとても優しくて、その父にテニスを教えてもらうのがいつも嬉しかった。
それなのに今は仕事が忙しいのか
父親がラケットを手にした所を見た事がなかった。
父とテニスの話をするのだって
思えばもうずっとしていない。
「私、立海大のテニス部も好きだったけど
今は青学でテニスするのが楽しいんです。」
「それはどういう事かね?」
「なんて言えばいいのか分からないんだけど
やればやるだけ強くなれそうな気が凄くして、
自分にもこんな力があったのかなって思えて嬉しくて。」
「そうか・・・。」
「ね、お父さん。
お父さんは私が全国大会に出るのは反対なの?」
「いや、反対と言う訳ではない。
高校でしかできない事はやったらいい。
無茶をしない程度なら、一生に一度の
このチャンスを逃す事はないからね。」
「本当?」
「ああ、ただし―。」
一瞬理解を示してくれたと思ったのに
父親の言葉はの心をえぐり取るほどの鋭利さを持っていた。
「この夏までだ。
夏が終わったらテニスは辞めなさい。
そういう約束だったろう?」
理不尽な父親の言葉が頭の中で木霊している。
なぜ、どうして?そう聞きたいはずだったのに
には返す言葉が出て来なかった。
父が幸村に自分を庇護させていたのはもう間違いない事だと気付いた。
そしてそうなれば父親が次に何をするかと言えば
その対象は今のパートナーである不二に他ならない。
不二に迷惑が掛かる事だけはされたくない。
自室に戻ったは幼い頃の自分の写真を手に取った。
の側には笑っている父がいた。
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☆あとがき☆
棄権する、という展開に
我ながらアホみたいにどうしようと
悩んでしまいました。(笑)
野球で言う所の敬遠を選択する
ピッチャーの気持ち、とは違うかも
しれませんが、私的にはそんな胸中。
いきなり全国大会からにすればよかった
と今更ながらに後悔している関東大会。
次回いよいよ決勝戦です。
2010.4.28.