29.  呪縛






 
 「ここに傷跡はないけど
  それでも俺はあの日の事を忘れた事はないよ。」




幸村がゆっくりとの髪を掬い上げるその指先はわずかに震えてるように思えた。

彼の瞳の中にはっきりと苦渋の色が含まれている事に気づき、ははっとした。

でも、あれは昔の事…。

あの日のことが幸村を苦しめていたなんて
本当に、少しも、今まで、…考えた事がなかった。

だってあれは事故で、幸村には少しも非はなかったはずで。



 「がコートで倒れた日、確かにあの日は暑くて…。
  君は脱水症状を起こしかけて意識を失い、そのまま倒れ込んだだけだけど。」


高等部に入りたての頃、1年生だけの新入生歓迎の行事として
男女合同のミニ合宿が行われた。

親睦を深めると共に新入生のレベルを図りながら
先輩たちによる洗礼とも言うべき特訓に脱力者も出るほどだったのだが
その合宿では暑さにやられて足をもつれさせ、練習試合中に倒れたのだ。

変な具合に倒れ込んだため軽い捻挫を起こしたのと
しばらく意識がなかったせいで大事になり
は検査のために合宿所からそのまま入院を余儀なくされた。

あの時呼び出された父親が珍しく激昂していた事だけは思い出せたが、
にとっては立海大のテニス部に入った時点で
どんなに練習がきつかろうがそれは覚悟の上の事だったから、
熱射病で倒れた自分に非があると、反対に自分の体力のなさを思い知る
情けない顛末のひとコマに、今までほとんどあの日の事を思い出したことはなかった。



 「あの時君が誰とゲームをしていたか覚えてる?」

 「…。」

 「普通に倒れれば軽い脳震盪ぐらいで済んだだろうに
  運の悪い事に俺の放ったスマッシュは倒れこんだ君の額をかすめてしまったんだ。」

 「でも、かすり傷だったよね?」

 「には言わなかったけど
  もう少しで君の目を傷つける事になっていた、って言われた。
  それにそれがなければ足を捻るような倒れ方ではなかった。」

 「もしかして幸村君、その事をずっと気にしていたの?
  幸村君のせいじゃないよ、そうでしょう?」

 「うん、そうなんだけどね。」 


目を伏せる幸村の姿はとてもには信じがたい姿だった。







        ********





 「立海大のテニス部が全国レベルなのはわかる。
  練習の質も量も半端じゃない事も知っている。
  そして自分の娘にいくらかテニスの才能があることもわかっているつもりだ。」

 「すみませんでした。」


深々と頭を下げた幸村はの父と名乗る男と二人っきりでロビーにいた。

医者や監督たちの説明を受け、念のために一晩入院するだけで十分とわかると
の父は明日迎えに来ますとだけ監督に伝えて病室を後にした。

監督からの父が立海大テニス部のOBだったと知らされ
反射的に幸村はの父の背中を追った。

の父は幸村と対峙すると
監督たちに向けていた物分りのよさそうな穏やかな雰囲気はたちどころに消えうせ、
その表情を硬くしながらまるで何かを探るような鋭い視線を向けて来た。


 「私もね、理解がない訳じゃないんだ。
  しかし、こういう事が自分の娘に起こるとね、
  やはり平静ではいられないものだ。」

品のいいの父はしかし、抑えた口調とは裏腹に
その瞳には明らかに敵意の色がある、と幸村は直感した。

 「本当にすみませんでした。
  この責任は俺が取ります。」

 「責任だって?
  君にどういう責任が取れると言うのかね?」

 「それは…。
  今後こういう事がないように約束します。」

 「私はね、の才能を誇りに思っていたよ。
  さすが私の娘だとね。
  けれどテニスで娘に傷を負わせるつもりは全くない。」

 「…。」


幸村はとのラリーを思い出していた。

力で押し切れば簡単に勝つであろう練習試合だったのに
必死で喰らいついて来るの返球がいい意味で幸村を翻弄し
回転をかけて戻って来るそのボールが幸村の裏をかいて来る様が面白くて
ついついラリーを長引かせてしまった。

夢中だったのだ、のテニスに。

きれいなフォームはお手本のように乱れることなく同じなのに
コートのこちら側に来たボールはまるで違った表情をしている。

緩急の付け方が上手すぎる。

決してパワーはないのに、ここへ打たれると嫌だなと思う所に
正確に狙って打たれて来る。

幸村は自分に死角があるなどと思った事はなかったけど
の返球が次はどこへ来るのだろうと思うと
あっさりとスマッシュでスコアを決めてしまう事が
もったいないような気がしたのだ。

けれど結果的に、もっともっと彼女の秘めてる力を
見てみたいと打ち続けてしまった事は
自分のエゴでしかなかったと幸村は後悔した。

倒れこんだ彼女の体が余りにも華奢だった事が思い出され
幸村はの父の言葉にうな垂れるしかなかった。


 「君が責任を感じているなら
  そうだね、ひとつ私に約束をしてもらいたいね。」

 「俺にできる事なら…。」

 「この先、の才能がこれ以上開花しないように
  君がストッパーになるんだ。」

 「えっ?」

全く予想していなかったの父の言葉に幸村は驚いた。

 「難しい事でもないだろう?
  この先の才能が認められればそれこそ
  今日のような危険性はもっと出てくるとは思わないかい?」

の父は威圧的な視線を幸村に向ける事で
幸村の思考をたちどころに停止させていた。

 「もちろん、にも誰にも気づかせてはいけない。
  私が頭ごなしににテニスを辞めさせてもいいんだが 
  それでは私がに一生恨まれてしまう。
  まして反発されて海外留学だの、プロだのと
  私の元から飛び出して行ってしまう機会を与えかねない。
  私はに嫌われる事はしたくないんだ。
  が、本音は今すぐにでもテニスを辞めさせたい。
  だから君に頼むとしよう。
  何、今すぐでなくともいい。
  高校卒業までにはテニスでいい思い出を作ってあげるといい。
  ならそこそこいい戦績を残すだろう。
  けれどそれも3年の夏までだ。
  君の力でが自主的に引退するように持って行くんだ。
  それまでならいくらでも娘とテニスを楽しんで構わない。
  大いにを守り続けてほしいね。
  いいかい、幸村君。
  これは私と君との取引だ。」


有無を言わせぬその言葉に、対抗できる力のない学生の幸村には反論の余地はなかった。


 「誤解されては困るんだが、
  私は何も君の将来性まで摘み取ろうとは思ってない。
  聞けば君はこれから日本のプロテニス会を背負って立つ程の逸材というじゃないか。
  きっとも君から随分刺激を受けるに違いない。
  ただし必要以上の期待を持たせてはいけない。
  わかるね、幸村君。」

の父は不敵な笑みを浮かべていた。

 「そして…初恋というものは得てして実らないものだよ。」

幸村はの父の言葉に自分の気持ちが見透かされている事に驚きを隠せなかった。


 「君が責任を取るというなら、その言葉を信じてみようじゃないか?
  この先君が私の望むようにを守り通したら
  その時は私は今日の事を忘れてあげよう。」



    


         ********






じりじりと肌を刺すような太陽が一瞬雲に隠れると
体感温度が涼しさを覚えるほどの影が二人を包み込んだ。

すぐそばには試合会場であるコートがあるというのに
この場所だけはまるで異空間のように静か過ぎた。


 「俺はと最高のミクスドを組みたかった。
  その気持ちに嘘はないけれど
  本当に最高のパートナーだったか、と言われれば
  俺には答える事ができない。
  君のためと言いながら君の才能を押さえ込んでいたのだから。」

 「そんな…。」

 「今の君ならわかるはずだ。
  不二君とのミクスドは俺とは全然違うのだろう?」

 「それは…。」

 「俺は君の才能を伸ばさないようにするどころか
  周りにも悟られないように隠してきた。
  君の体力のなさを徹底的に意識付けて
  君の力不足をカバーするという名目で俺がゲームを仕切って来た。
  そしてそれがミクスドの理想形とでも言わんばかりに
  君にも周りにも正当化して来たんだ。
  そしてミクスドで優勝し、いい思い出のまますんなり引退、
  そのシナリオは完璧なはずだった。」

 「でも…、それでもあの頃は
  幸村君と一緒にテニスする事が私の全てだったよ?
  満足してないなんて事、思った事もなかった。
  あの時伸びなかったものがあるとしたらそれは自分のせい。
  私が幸村君に甘えてただけ。
  だから幸村君のせいじゃない。」


父の影響で幸村が自分の才能を押さえつけていたなんて考えもしなかった。

幸村は天才と言うより鬼才だと思っていた。

幸村とテニスがしたくて必死に練習をしていたけど
幸村のテニスにかける情熱と練習量は
他の誰の追随も許す事はなかった。

自分がどれだけ練習をした所で
彼の足を引っ張らないようにするだけで精一杯だった。

天と地ほどの才能の差を縮めたいと思うよりも
幸村のそばにいることが許されるならどんな形でもいいと思っていたあの頃。

もちろん幸村の事を純粋に尊敬もしていたし憧れてもいたけれど、
その幸村でさえ、プロの道を選ばず立海大に進学すると聞いた時、
自分も後輩指導にベストを尽くそうと至極あっさりと
自分の将来を考えていた。

あの頃の自分は幸村とミクスドを組む事だけが単純に嬉しかっただけだ。

幸村と一緒に過ごす時間が大切だったから
少しでも彼と一緒に目指すものがあれば
それは大義名分となっていつまでも幸村の隣にいる事を
誰にも非難されないだろうと浅はかにも思っていた。

そう、幸村のそばにいるためにはテニスをしていた。

上手くなろうとかプロになろうとか、
結局そういう事はにとってどうでもよかったのだ。

だから幸村が敢えての才能を伸ばそうとしなくても
結果は同じだったのではないかと思った。


 「には理解できないだろうね。
  俺がどんな気持ちで君とミクスド組んでたかなんて・・・。
  軽蔑されても仕方ないかもしれない。」

 「軽蔑なんて。
  そんな風には思ってないから。」

 「いいんだ。
  もう覚悟はしてある。
  きれい事だけで済ませようなんて
  一時でも逃げていた自分に目を背けてはいられないんだ。」


ぐっと噛み締めるその口元からため息が洩れる。

今までには見せなかった苦痛の表情にはどう声をかけていいか躊躇っていた。

きっと幸村にもあの頃のの気持ちなんて全く理解できないと思う。

でも自分も幸村の気持ちを知らずに今まで過ごしていた。

違った意味で幸村を自分に縛り付けていたと思うと
それは不本意ながら悲しい事だと思った。


過去に戻れたとして、幸村の苦痛を取り除く事ができるなら
は迷わず過去に戻る道を探すかもしれない、
けれどその過去が変わってしまったら今のは確実にここにはいなくなる。

不意には漠然とした不安に駆られた。


 「私、わからない…。
  幸村君が何で今、そんな事を言うのかわからない。」

 「?」

 「・・・だって。
  私だって・・・。」



必死になって何かを考えようとしてるの表情が愛しくて
幸村は硬かった表情を崩して優しい目を向けた。

 「ごめん、
  君を困らせるつもりはないんだ。
  ただちょっと焦ってるだけだから。
  復帰しても立海大のコートにがいないんだって思ったら
  結構ショックだったんだ。
  君には青学に行ってテニス続けたらなんて言ったけどさ、
  あんな事、言わなきゃ良かったってバカみたいに後悔してるんだ。」

は幸村が、自分もかつてそう思ったように
幸村が復帰したコートにかけがえのないパートナーがいなくて落胆してくれたと分かると
ぎゅっと胸を締め付けられるような思いで一杯になった。

 「でも、もまだテニスを続けてる。
  俺もまた一から始めるつもり。
  そして今度は何があっても立ち止まらない。」

 「幸村君?」

 「俺はもう誰にも遠慮なんてしない。
  そして自分の大切な物はもう決して自分から離しはしない。
  後悔なんてしたくないから、
  何が何でも君ともう一度ミクスドをやるよ。
  本当の意味で、君と最高のミクスドを組んでみたいんだ。」


いつもの幸村らしい柔和な表情としっかりした声には幸村を見つめ直した。

幸村の目には先程のような憂いを含んだ陰は見当たらなかった。

それよりも今は幸村に大切な物だと言われてるのが
自分の事なんだろうかと思うとは顔が熱くなるのを感じて俯いた。

まるで告白でもされてる気分だ。


 「ねえ、
  俺には君が必要なんだ。」

 「えっ///?」

 「いいんだ、
  今は仕方ない。
  君のパートナーは不二君だからね。
  でも俺にもチャンスを与えて欲しいんだ。
  君の才能を本当の意味でその眠りから覚ますのは
  俺の役目だと思うから。
  だからこのまま全国で優勝して選抜に入っておいで?」

 「選抜?」

 「もう十分も有名人だからね。
  俺も頑張って君に釣り合うようにならないとね?」

 「幸村君がそんな事言うなんて・・・。」

 「可笑しいかい?
  でもあっという間に追いついて
  を不二君から奪って見せるよ?」

 「な、何言って////」


幸村の言葉にカーッと体中が熱くなった。

幸村にとってはたいした意味はない言葉だろうけど
ほんの数ヶ月前までは幸村の事が好きだっただから
そんな風に言われて狼狽する自分には困惑した。

 「恨むなら不二君を恨んでよ?
  君を表舞台に立たせてしまったのは不二君だ。
  だから俺も同じ土俵の上に立つだけなんだ。」

ニコリと笑う割りにその目は笑っていなくて
は幸村に返す言葉を失っていた。
  

その時、場内アナウンスが午後の試合会場の案内を始めるや、
は異常な位不安げな表情で弾かれたように立ち上がると
時計が近くにないかそわそわと辺りを見回した。


 「私、行かなくちゃ…。」


無意識のうちに口をつく言葉。

幸村とどの位の時間を過ごしてしまったのかにはわからなかった。

ただ、なかなか戻って来ない自分を不二が心配してないかと
試合前にいつも余裕を持って行動していた
まるで迷子の子猫のように心細そうな表情をしたかと思うと
すでにその視界には幸村の姿は入らなくなっていた。



そんなの動揺がわからないはずはなく、幸村はわずかに口元を歪めたが
ゆっくりと立ち上がると黙ったままの背後からその細い体に腕を絡めていた。

すっぽりと優しく包み込まれた状態は幸村の体温で息苦しかった。

その意味不明な行動には息を呑んだまま動く事ができなかった。



 「大丈夫、試合までにはまだ時間はあるよ。」

 「ゆ、幸村君////?」

 「お願いだから、俺とミクスドやるまで
  俺のことを忘れないで?」


優しい口調での耳元にさらに一言二言囁くと、幸村はそっと離れて行った。

は振り向けなかった。

突然抱きしめられた感触だけが体に残っていて
幸村がなぜ彼女にでもするかのような行動を自分に対して取ったのかがわからなかった。

混乱と困惑。



幸村に聞かなくてはならない言葉がたくさんあるように思うのに足は動かない。



幸村を追ってはだめだ。

そんな声が聞こえたような気がした。

なぜいけないの?

そう自分に問い掛けようとしてふと
はるか向こうにこちらへと歩いてくる不二に気がついた。


ざわざわと急に木々をすり抜ける風音がして
は眩暈のような感覚に襲われ、すぐには不二へと足を進めることができないでいた。










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☆あとがき☆
 久々の更新が怖いです。
ちょっとずつ壊れていく筋が
この先私を苦しめることでしょう。
2008.12.10.