30. 碧い瞳
不二は立ち去る幸村を見たのだろうか?
じわじわとなぜか広がる罪悪感。
そんな気持ちを持つ事自体、バカバカしいことだと打ち消そうと思っても
幸村と二人でいた事がとても悪い事のように思えてくる。
幸村はとまたミクスドがしたいと言いに来ただけだ。
と不二の試合を見て幸村が感化されたというなら
それは別に悪い事でも何でもない。
幸村とまたテニスができるチャンスがあるなら
もう一度一緒にやってみたいと思う気持ちはにだってある。
恐らく幸村と一緒にテニスをやりたいと言ったところで
不二が気分を害する事はないと思う。
不二はの一番の理解者なのだから。
けれど、幸村に一瞬でも抱きしめられていた事実を
不二に聞かれたらは答える術を持たない。
にだってその理由はわからないのだから。
やがて不二がのそばにやって来て
いつもと変わらない口調での名を呼んだ時、
は意識的に不二の目を見つめた。
自分の大好きなその碧い瞳が
一瞬でも曇る事があれば自分の戸惑いを隠す事などできそうになかった。
「なかなか戻らないから心配した。」
けれど不二の瞳はいつも通り優しいものだった。
「ごめん、もう集合の時間だよね?」
「このままコートに行くけど。」
「うん、そうする。」
不二と肩を並べて歩きながらは少しだけほっとした。
幸村の事は今でも憧れの対象であるけど
前のように一緒にいる時間は格段に少なくなってしまい
他校の生徒としてお互いを見てしまっている時点で
にとって今は不二以上の存在ではなかった。
もちろんその事をは自覚している訳ではなかったけど。
幸村ほど身長差がないからが不二の事を少しだけ見上げるだけで
彼のポロシャツの胸元にお揃いのアクセサリーが光っているのが見える。
不二に買ってもらったネックレスはにとって気恥ずかしいものだけど
こうやって身近に感じられる不二との距離が
今は一番居心地がいいと思う。
「英二がね、を放っておくと大変だって脅かすんだ。」
「なんで?」
「、可愛いし、テニス上手いから
その辺の奴らにナンパされちゃいそうだって。」
「え〜、それはないです。」
「本当かな?」
本当かな?と言った言葉はなぜかその言葉だけトーンが低かった気がした。
やましいと思ってる訳ではないのに、不二に疑われてはないだろうかと
そればかりが気に掛かって、そんな風に聞こえてしまうのかと胸が痛んだ。
「…。」
不二が立ち止まったかと思うとその手がの体を包み込んでいた。
ぎゅっと力強く抱きしめられて不二の顔はよく見えなかったけれど
その突然の行動には小さく悲鳴を上げた。
「ごめん。
がなかなか戻って来なくてたまらなくなった。」
「ふ、不二君?」
「観月がさ、の事、凄いって褒めてた。」
「えっ? 観月さんが?」
「大学はルドルフに是非、だってさ。
そんなの、僕が許すとでも思ってるのか、って話だよね?」
耳元で話す不二の口調は普段通りだったけれど
不二はを抱きしめている手を緩めようとはしなかった。
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。
青学のままで十分だもの。」
「そう?」
「だってうちからルドルフは遠すぎるもの。」
努めて明るく言ってみたものの
なぜだかの気は晴れなかった。
幸村の体温を思い出して不二と比べてる自分がいた。
上手く言えないけれど自分の気持が恐ろしく掴みどころがなかった。
不二にこうして抱きしめていてもらわなければ
ずっと幸村の事を思い出していたかもしれないのだ。
今のパートナーは不二だ。
そして試合はすぐに始まる。
「。」
「何、不二君?」
「キスしてもいい?」
えっ?と思う間もなく後頭部を掴まれ
不二はあろうことか道の真ん中での唇を奪ってきた。
不意を突かれて瞳を閉じる間もなかった。
の目の前には不二の青い瞳がじっと注がれていた。
********
「ねえ。」
「なんだ、か?」
立海大のコート近くに戻るとが
フェンスに背を預けた格好で幸村を待っていた。
その不機嫌そうな表情を見やると幸村は視線をわざとはずした。
「病み上がりの彼氏が心配で待ってちゃいけないの?」
「俺はもう病人じゃない。」
「どこに行ってたの?」
「どこだっていいじゃないか。」
の態度につい幸村もイラだった様に答えた。
答えてしまってからしまったと思った。
の表情は不信感で一杯だった。
「そうね。
幸村はもうどこにだって行けるわ。
でも、私はどこにも行けない。
ここで幸村が戻って来るのを待つだけ。」
「何、らしくない事言ってるの?」
「そうかな。
ねえ、幸村。
私はコートの白線から中には入れない。
幸村がコートから出て来るまでいつも待ってる。
それはちっとも嫌な事じゃなかったけど・・・。」
「どうしたんだ、急に。」
「別に。」
別にと言っておきながらの言葉は妙によそよそしい。
それがわかっていても幸村はとりなそうとは思わなかった。
はで、今までなら詮索するような事をしたことがなかったのに
つい幸村の冷たい言い方に歯止めが利かなくなっていた。
「何が言いたいんだ?」
「ただ、もし幸村がコートから出て来なくなったら
私どうしたらいいんだろうって。」
「訳わかんない事言わないでくれ。」
「じゃあ、訳わかんない事しないでよ。」
唇を噛み締めながらは
溜まっていたものの一部を吐き出すように叫んでしまった。
けれど幸村はの言葉に答えることもなく
何事もなかったかのようにの前を通り過ぎて行く。
思えば入院した頃から幸村は何となく変わったと思った。
あれだけ精神力の強い幸村だって人の子だ、
気弱になる事もあるだろう、
まして関東大会に出られなかった事は
幸村にとってかなり残念だったに違いない。
彼のリハビリに掛ける思いは並々ならぬものだった。
それはには痛いほど分かっているつもりだったのに
テニスに打ち込む最近の彼の瞳にはは全く映ってないように思えた。
自分はテニスはできない。
けれど幸村にとってテニスは常に一番だった。
テニスをしている幸村は本当にかっこよかった。
その姿を見ることができるなら
幸村が誰と試合しようがペアを組もうが
にはどうでもいいことだった。
なのに今は違う。
幸村が必死になってコートに復帰しようとする姿を見ると
なぜだか不安を覚えて仕方がないのだ。
マネージャーとして、彼女として彼を支えてきた自信は
いつの間にか幻のように感じてしまう。
ひとつ疑問に思えば次々と思い出させる全ての事が
嘘だったかのように思えてならない。
今まで信じて疑わなかったの心に
今までなかった人を妬む気持ちが生まれてしまったのだ。
疑いたくない。
だけど、今、幸村を突き動かしてるのは
間違いなく自分ではない他の子だという事に
は言い様もない焦燥感を感じ出していた。
********
準決勝の相手は氷帝学園の2年生、鳳と鳥取ペアだった。
鳳は2年生でありながらレギュラーであり
その長身を生かした高速サーブの威力は驚異的との評判だった。
「。」
靴紐をしっかり結び直していたに
不二は静かに声を掛けた。
「試合の前に、ひとつ約束して欲しい事があるんだけど。」
不二の視線とかち合うとは気恥ずかしくなって下を向いた。
試合前にあんなキスをするとは思わなかった。
あれから試合会場に戻るまで二人とも黙ったままだった。
だからと言って雰囲気が悪くなった訳ではない。
試合が始まってしまえばそんな事を思い出す暇はないだろうけど
今はまだ不二のそばにいるだけではドキドキしている。
「約束って?」
「氷帝の鳳のスカッドサーブの事なんだけど、
この試合中、絶対に手を出さないで欲しいんだ。」
不二がこんな風に絶対に、という言葉を使うのは珍しいと思った。
確かに鳳のサーブは高速だが
には捕らえられないという不安はなかった。
超プロ級のサーブと言えど、真田や幸村のスマッシュを
間近で見て来たにはさほど珍しいスピードとは思えない。
「サービスゲームを落としてもいいって事?」
「鳳のサーブは速さだけでなく、威力も強まってる。
あれをまともに受けたら怪我をしかねないからね。」
その言葉にはえっ?と聞き返した。
「もちろん、氷帝のサービスゲームを落とす気はないよ。
粘っていけば鳳のサーブは必ずその精度を失っていく。
威力はあっても豪速球なだけにコントロールは今ひとつなんだ。
多少試合時間はかかってしまうかもしれないけど
君に怪我はさせたくないからね。」
怪我をさせたくない、そんな風に言われれば反論はできない。
「観月との試合では君ばかりに負担を掛けてしまった。
その上鳳と直接対決なんて、心配だからさ。
こんな所でもし怪我でもしたら全国大会に行けなくなるしね。」
そう言って微笑む不二の口調は相変わらず優しい。
けれどコートの中でその優しさは不必要だとは思っている。
そう、幸村が気に掛けていたあの時の事のように
いつだって怪我や事故は本人たちがいくら気をつけた所で
起きる時は起きるのだ。
それよりも怖いのは故障なのだ。
このまま試合時間が長引けば、いくらアシスト役に回った所で
不安を覚えている右手首への負担は強いられてしまうだろう。
「不二君。でも・・・。」
「だめだよ?
僕にとってはテニスも大事だけど
それ以上に君の事が一番大事なんだから。」
同じ言葉が不二の口からついて出た。
君の事が一番大事
その言葉は不二が心底を心配して言ってくれてるのだと思う。
でももうその言葉を鵜呑みには出来ないとは思っていた。
この夏限りで終わろうとしていたものが
限りなく未来を指し示している。
選抜に入っておいで
本当の意味で、君と最高のミクスドを組んでみたいんだ
幸村の言葉が頭の中でぐるぐると渦巻き
やがてその中から新しい声が聞こえてるような気がした。
今まではただ好きな人とミクスドをやるのが夢だった。
満たされぬ思いはそれで解消されるのだと思っていた。
だけどそれは、最高のミクスドではないのだ。
もっと上を目指すべきだよ?
君ならできるはずだ。
そこで終わりにしなければ、きっと夢は次々と膨らんでいくのだ・・・。
は右手首のリストバンドを無意識に押さえていた。
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