18.心のままに  1







今日の試合、絶対勝つ!と心に決めたからには、
あのラケットがもう戻ってこない事は自分で自分に納得済みの事だった。

幸村に選んでもらって、幸村と共にテニスをしてきた日々を、
全て記憶していたラケット。

でも、青学の一員として、この先全国大会まで目指すなら、
幸村との思い出を引きずるのはナンセンスだと思う。

いや、引きずるという感覚はもうすでにの中にはなかった。

立海大での時間があってこそ、今の自分がいるわけだから、
それを否定する事に何の意味もなく、
立海大で生まれ、そしてここ青学で育まれていくテニスこそが、
今の自分なのだから、そのことを誇りに思わなければ…。

だからこそ、もし、あのラケットがの元にもどらなくても、
自分は大丈夫、とは思っていた。

けれど…。











 「そう。あなたはどうしても私たちの言うことが聞けないようね?」



不二の親衛隊の影の会長と呼ばれる黒崎麗華が、
を蔑むように冷たく微笑む。

その足元には、が予想したように、
ガットがことごとく切り裂かれたままの状態のラケットが捨て置かれていた。


 「このラケットがどうなるか、ちゃんと見届けたいでしょう?」


黒崎は小さなペットボトルの中の透明な液体をゆっくりとラケットに滴り落とした。

とたんに、ツンと鼻を突く特有なガソリン臭さがあたりに漂った。

の表情が気色ばむと黒崎は満足そうに笑いながら、
空のボトルを捨てると、スカートのポケットからライターを取り出した。



無くなっても構わない、そう思っていた決心が揺らぐ。



の目には、不二が巻いてくれたあのグリップテープしか映っていなかった。

あれは燃やされたくない、そう思った瞬間、
はラケットを奪い返すために手を伸ばしていたが、
後ろからがっちりと黒崎の部下に肩を捕まれると、
そのまま地面に両膝を付けさせられ、ぐいとポニーテールを引っ張られる。

引っ張られた弾みで結んでいたゴムが千切れ、
の豊かな黒髪はパサリと両肩に落ちた。



 「今更このラケットの命乞いをしたところでどうなるの?
  それよりも不二君との事を諦めてくれないかしら?」

はキッと黒崎を睨み上げると吐き捨てるように言った。

 「なんで諦めなくちゃいけないの?
  同じチームメイトとして、
  全国大会を夢見る事のどこがいけないの?」

その途端、バシッという音と共にの頬は赤くなった。

 「思い上がるのもいい加減にしなさいよ!!
  あなたがいなくたって不二君たちは全国に行けるわ。
  何がミクスドよ。
  そんな低級な試合に出るような人じゃないのよ、不二君は。」



は頬の痛みよりも、ミクスドを低級な試合と言われた事に腹が立った。

けれどそれを話して理解させられるような相手ではない事がもっと悔しかった。

悔しくて涙が出そうになるけど、泣く訳にはいかない。

今度泣いたら力ずくでも立海大に連れ戻すぞ、と言った真田の言葉が脳裏をかすめる。


 「…私は、絶対あなたたちに屈服なんてしない。
  私の居場所はここしかないんだから。
  テニスもやめない。ミクスドも諦めない。
  不二君が、不二君の口からミクスドを解消しない限り、
  私は不二君のパートナーでい続ける。」


強くならなければ…は自分に言い聞かせる。

守られてるだけの中でテニスはしたくない。

不二君のパートナーとして、ちゃんと自分の居場所は自分で主張しなければ…。



 「強がっても無駄よ!」


そう言うと黒崎の平手がの頬をまた打ち鳴らす。





 「何やってんだよぉ!!!!!」



大声で叫びながら菊丸が黒崎の部下たちを一蹴する。

菊丸はの前に立ちはだかると黒崎に食って掛かった。


 「お前ら、こんな事してただで済むと思うなよ?」

 「あら、菊丸。何しに来たのよ!」

 「ちゃんに手を出すのは俺が許さないからな!」

 「ふん。私たちに手を出したら困るのはテニス部でしょ?
  全国行きがふいになっていいの?」

 「なんだと!」


菊丸の拳がぐっと握り締められたまま震えてるのがわかる。

黒崎はゆっくりとライターの炎を菊丸の前に差し出した。

 「ねえ、菊丸。あなた、本当に何しに来たのよ?
  お姫様を無事助け出したら、自分が王子様になれる、な―んて思ってる?
  ね、そうなんでしょ?
  菊丸、あなた、…さんの事が好きなんでしょう?」

 「な、何言って…。」

 「あら、私は不二君が好きよ。
  不二君のためなら何でもできる。
  だから、わかるよ、菊丸の気持ちも。
  菊丸はさんのためにここへ来たんでしょう?
  さんを助けたいんでしょう?

  ね、菊丸がさんとダブルス組んだ方がお似合いだと、私思うわ。
  彼女を助けたいんなら、そうね、今ここで彼女にキスしてみるっていうのはどう?
  そうしたらさんを解放してあげる。
  ほら、王子様のキスでお姫様は本当に選ぶべき人が誰だか、
  やっとわかるのよ。」

 「勝手な事言うな!!」

菊丸が怒りで真っ赤になってる様を、黒崎はふんと鼻であしらう。

 「あら、私は菊丸を応援してあげてるのよ?
  明日になれば菊丸とさんは付き合ってるって噂流してあげる。
  そうすればさしもの不二君だって、親友の彼女とミクスド組むのはやめるかもね。
  どう?
  菊丸だってその方がいいんじゃないの?」

黒崎はライターの炎をさらに近づけてきた。

 「や、やめて!菊丸君を巻き込まないで!」

自分のせいで菊丸に迷惑をかけてしまう、
は思わず叫んでいた。

 「ちゃん、俺なら大丈夫。」

菊丸はを振り返っていつものようにニッと笑った。

そして菊丸はライターを持つ黒崎の手首を握ると、
動じることなく黒崎を睨み返した。

 「お前、全然不二の事わかってないや。
  そんな噂なんて不二が信じると思うか?
  こんな事したって、不二は絶対ミクスドを辞めたりしないよ。」






     ********






僕はなんて迂闊だったんだろう?

舞ちゃんの告白と同時に、大石から聞かされたさんへの嫌がらせ。
それがこんなに深刻になっていたなんて。

もっと早く僕が立ち回れていたらこんな事にはならなかった。

さんに避けられてるからって、
僕は何を弱気になっていたんだろう?

彼女がここ数日、
何を思い、どんな風に自分の立場を考えていたのだろうと思うと、
もっと早くに彼女の気持ちを聞き出すんだったと後悔していた。

彼女が封印していたテニスへの思いは難なく引き出す事ができたのに、
肝心の彼女の気持ちを引き出す勇気がなかった。


そうさ。

僕は幸村君と比較されている自分を知るのが怖かったんだ。

だから、彼女が自分の力で過去と決別してる姿に甘えていたのだと思う。

彼女が幸村君のいる立海大から、進んで青学のレギュラーとしての自覚を持ってくれれば、
いずれ、ミクスドのパートナーとして、自分のことだけを見てくれるだろう、
と安易に見守っていたんだ。

見守る?

いや、そんな事もできていなかったんだ。





真田や菊丸にできて、自分がしてこなかった事。

その不甲斐なさに不二は改めて自分自身に腹を立てるのだった。




  ―不二らしくないじゃん!―



菊丸の言葉が頭の中でぐるぐると不二を攻め立てていた…。









     ********



黒崎の持つライターの炎が不気味に揺らいでいた。

菊丸は黒崎の手首を握ったまま睨み合っていた。


 「こんな脅しに俺らが乗るとでも思うのか?
  いい加減諦めて、不二とちゃんのミクスドを応援してやったらいいじゃないか!」


 「菊丸ってほんと、不二君思いね。
  親友面で通すつもり?
  いいわ、じゃ、あなたの助けたかった人が苦痛にゆがむ顔を黙って見てればいいわ。」


黒崎は意地悪く微笑むと、
手に持っていたライターをするりと落とした。

とたんにラケットは鮮やかな炎に飲まれた。

は短く悲鳴を上げると、ラケットを拾い上げようとした。

けれど炎の勢いに手を出すことができない。

菊丸がを引き戻そうとしたが、
次の瞬間、は何の躊躇いもなく自分のポロシャツを脱ぎ去ると、
それでラケットの上から炎を押さえ込んだ。

 「あっ、ちゃん!?」



菊丸はあまりの光景に思わず固まる。

一心不乱に炎を消すの横顔は今にも泣きそうに見える。

長い黒髪が背中を覆ってはいるが、その白い肩は震えてるのがわかる。

菊丸は自分のレギュラージャージを急いで脱ぐと、
後ろからを包み込んだ。


 「…ちゃん、ごめん…。」

菊丸にぎゅっと後ろから抱きしめられ、
は黒くすすけたラケットを見つめたまま首を振った。

 「菊丸君のせいじゃない。」

 「だけど…。」

二人を見下ろすようにして黒崎が勝ち誇ったように言い放つ。

 「いいざまね。
  結局、そのラケットはやっぱり捨てられないんじゃない。
  ラケットじゃないわね、
  さんは結局前のパートナーが忘れられないのよ。」

 「違う!」

 「結局不二君は身代わりなのよ。」

 「違う!違う」

 「あなたなんて、不二君に全然ふさわしくないのよ!!」



黒崎の言葉にはラケットを抱きしめたまま首を横に振る。

我慢していた涙があふれそうになっては歯を食いしばるしかなかった。

菊丸は菊丸で、がやはり幸村のことが忘れられないでいるのだろうかという思いに、
思わず抱きしめていた両手の力が抜けるのをぼんやりと感じていた。





と、その時、は聞き覚えのある声に身を硬くするのだった。


 



 「ねえ、誰が僕にふさわしくないって!?」










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2005.11.28.