極上氷帝寮物語  9









と会話してからどのくらいの時間が過ぎただろう?

は机に向かうものの、予習のために開いた数学の問題集は、
先程から同じページが開かれたままだった。

跡部の手元にあるだろう鞄を思い浮かべると落ち着かない自分がいた。





二人分の鞄を持った跡部の手。

近づいて来た跡部のローファーの黒。

そして頬に触れた跡部のシャツ越しの胸板のぬくもり。




はついにペンを放り出すと階下の食堂へ向かった。

結局夕食は逃してしまった。

忍足に会うのも嫌だったし、他の誰かに詮索されるのも嫌だった。

遅い時間だったのですでに食堂は閉まっていて、
廊下の照明も一段光度が落とされていた。

はロビーに備え付けられてる自販機でウーロン茶を買うと、
そのまま薄暗いロビーのソファーに体をうずめた。




そのままぼうっとしてると静まり返っている寮の入り口が開く音には驚いて振り返った。

そしてそのまま息を殺して、
薄暗がりの中から現れた人物の顔を確かめるように凝視していた。







  跡部?   まさか、ね…?






 「なんや、降りて来とったん?」




何でそう思ったのかは自分でもわからなかったが、
跡部だと思ったのは全くの勘違いで、
そこにはTシャツにGパン姿の忍足がビニール袋を提げて立っていた。


夕方降っていた雨はとっくに上がっているらしい。



 「忍足?」

 「ちゃんと3食食べんと育つもんも育たへんで?」

 「…それ、微妙にセクハラ!」

 「あほか! ほら、これやるわ。」


忍足が差し出したのは、学園のそばのコンビニで買ってきたらしいおにぎりだった。




 「私、なんだか忍足に恵んでもらってばかりだね。」



私の事は放っておいて、と突き放したばかりだというのに、
忍足はそんな事があったなんて微塵も感じさせないほど
普段通りにからかってくる。

そんな忍足の優しさがいつになく居心地が良くて、
は安心しきっていた。

受け取ったおにぎりのフィルムをぺりっとはがして食べ始めると、
忍足は自分用に買ってきた炭酸を取り出した。

冷えた炭酸のビンに細かい水滴がたくさん付いていて、
忍足が一口飲むたびに水滴がツーッと滴り落ちる。

炭酸のCMやったら売り上げ伸びそう…、
は忍足を改めて見直しながら、どうでもいい考えに我ながら心の中で苦笑した。


 「俺は養ってるつもりやけど?」

 「…私は野良猫ですか?」

 「そやな、野良猫やったらよかったかもなぁ。」

 「何それ?」

 「堂々と拾って帰るわ。」


それは忍足特有の戯言だとわかっていても、
今日の忍足はどこか雰囲気が違う。

そう気づいたのは忍足の目が笑ってなかったから。





 「なあ、
  俺、こう見えても猫が好きなんや。」


 「…それは初耳。」


はなんでもない事のように努めて抑揚のない口調で答えた。

何かに気づいてしまったらもう元には戻れそうにない予感がして。


 「猫って気ままやろ?
  何考えてるかわからへんし、束縛されると逃げよるし。
  目立つ事は好きやないし。
  でもな、他の奴に取られる位なら、
  少々強引でも俺のそばに引き寄せたいねん。
  、どない思う?」


忍足の真っ直ぐ自分に向けられた視線を
は避けるように手元のおにぎりを見つめた。


 「ノラは…難しいんじゃない?」

 「難しくてもええんや。」

 「忍足には似合わないよ。
  ペルシャとかアビシニアンとか、もっと…。」

 「なら、跡部とはもっと似合わんやろ?」




語気の強い言葉には思わず忍足の顔を見つめてしまった。

忍足の眉間には苦悩の皺がはっきりと見て取れた。



 「なあ、はテニス部っていうだけで
  俺たちの事今までどこか一歩引いて見てたやろ?
  俺な、に冷たくされても、
  ミーハーな子よりよっぽどよかったんや。
  テニス部は氷帝のアイドルみたいなとこあるし、
  はそういうの好きやないんやから仕方ない、思うてたんや。」


忍足は気の抜けていく炭酸のビンを手の中で弄んでいた。


 「なんでかわからんけど、
  はテニスが嫌いなんや、とか、
  テニスやってる奴は好かんのやろなあって。
  でも、それは跡部とか宍戸とか、他の奴がにちょっかい出しても、
  絶対どうこうなるもんやないやろな、って思うてて、
  そやな、どこかでずっと安心できてたんや。」


 「…。」


 「けど、それは間違いやったんかな。
  がテニスできるんなんて、ちーっとも知らんかった。
  こんなことやったら、ストリートテニスでも誘えばよかったなあ。」

 「何、それ?
  誘いに乗る訳、ないじゃん。」


は小さな声で呟いた。


 「じゃあ、じゃあ、なんで跡部とはやったん?」






そう言えば跡部にも「なんで滝とやれて俺とはできねーんだよ。」と押し切られた。

今度は忍足に「なんで跡部とできて俺とはしてくれんの?」と言われてるようなものだった。

なんでそんなにテニスにこだわるのか、テニスができようができまいが、
そんな事を詮索される筋合いなんてないじゃないか、とは思った。


 「したくてやった訳じゃない。
  だのに、なんで忍足に責められなきゃいけないのよ?」

 「責めてるつもりはない!
  でも、嫌々やった割には本気出しとったやろ?
  ぶっ倒れるまでやる事ないやん?
  それが腹立つねん!!」


不機嫌そうに吐き捨てる言葉は普段の忍足とは違っていて、
は初めて忍足を怖いと思った。


 「俺の腕の中で倒れたくせに跡部は当然のようにを攫って行った。
  傍についていてやりたかったんは俺なのに、
  の傍にも寄らせてもらえん。
  それでもが普通に戻って来たんやったら我慢できたんや。
  それなのに…。」


忍足は炭酸をテーブルに置くとの肩に手を付いてそのままソファーの背にを押し付けた。


 「お、忍足?」

 「、お前跡部に何か言われたん?」

 「な、何も言われてない!」

 「そやけど、跡部の事、前より想うとるやろ?」


間近に迫る忍足の眼差しは真剣そのものだったが、
にとっては冷たく険しいものにしか見えなかった。


 「俺はが好きなんや。
  だから、俺の事も少しでええから好きになって欲しいんや。
  いや、少しでええなんて欺瞞やな。
  俺の事だけ考えて欲しいんや。」

 「や、やだ、忍足、冗談は辞めて!」


近づいてくる忍足の顔に戸惑いながら、
は呆然としていた。

忍足がにちょっかいを出してくるのはいつもの事で、
でも、今まで一度たりとも直接的な行動を起こす事はなかった。



キスされる!?



そんな状況にはっきりと拒否の意思を伝えたいのに
体が動かない。

どうしよう?
と思った瞬間、ふっと忍足はの肩から両手を離すと
の横に座り直した。







 「冗談や!」

 「えっ?」

 「があんまり思い詰めた顔しよるから
  からかっただけや。」

 「う…そ。」


は忍足が何を考えてるのか全然わからず固まっていた。



 「なんや? 本気でキスしてもよかったん?」



考える人のようなポーズを取って、
忍足は涼しげな瞳でを見つめていた。

先程の殺気のようなオーラはもうどこにも感じられなかったが、
は忍足の言葉のどれが真実でどれが冗談だったのかと、
困惑の表情で緊張したまま忍足を見つめ返していたが、
その焦点は忍足には定まっていなかった。



 「悪かったな、驚かしてしもて。
  でも、これでは跡部と同等ぐらい
  俺のことで悩んでくれるやろ?」

 「そ、そんな…。」

 「の事好きなんは本当や!
  は?
  誰か好きな奴、おるん?」

 「…。」

 「じゃあ、手塚とはどんな付き合いなん?」

 「えっ?」



まさか忍足の口から手塚の名前が出るとは思わなかった。

は今度ははっきりと忍足の視線と目を合わせた。


 「って中学は青学やったんやな。
  から聞いたわ。
  それにあのドロップショット。
  あれは青学の手塚しか使わん零式やったし、
  あれをができるんゆうのは、
  いかにもって感じやし…。」

忍足は言葉を切るとふっとため息をついた。

 「手塚と付き合うてたんか?」

は首を横に振る事しかできなかった。

 「そうか…。片思いやったちゅうことか。
  そやけど、あの零式はもう使うたらあかんで?
  手塚でも肩を痛めた技なんや。
  あんなん、いくら好きな奴の技やゆうても真似したらあかん。」

は思わず目を見張った。

そう、あの技は利き腕にかなりの負担を強いる事はも知っていた。

だけど、手塚と同じレベルでテニスがしたかったし、
何より手塚と同じ痛みで彼の事をもっとわかりたくてわざと練習した技だった。

でもそんな努力も手塚には知られる事なく終わってしまったけど…。


 「もう遅いし、部屋に戻るか。」


忍足は立ち上がると炭酸のビンを取り上げた。


 「俺、千の技を持つ男なんやで?
  今度に合いそうな技を教えたるわ。」


そしての前を通り過ぎる際に、
の右頬にすばやくキスを落とすと、
耳元でおやすみと呟いて忍足は自分の部屋へと静かに立ち去っていった。



は右頬に残った不意打ちの温もりにしばらく立ち上がれなかった。











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2006.7.2.