極上氷帝寮物語 7















    …ねえ、手加減なんてしないでよ


    私じゃあ、相手にしてくれないの?


    そんなの、ちっとも嬉しくないよ











どれほど時間が経ったのか。

またしても思い出したくなかった過去が蘇ってきて、
はぼんやりと天井を見上げてる自分にやっと気付いた。



 「ここ…どこ?」


そんなの呟きが聞こえたのだろう、
傍らの椅子がガタンと音を立てた。



 「気がついたか?」


それでもまだぼうっとしてるは眩しい蛍光灯を遮るように、
右腕で両目を隠した。


 「よく寝てたぜ?
  安心しろ。ここはレギュラー用の部室だ。」

 「あ…とべ…なの?」

 「ああ。運んだのは忍足のやろーだがな。
  それにしても悪かったな。
  しごくようなまねになって。」


なんだろう?
顔が見えないせいか、声が優しい。


 「…でも、最後は決めれる!って思ったのにな。」


は最後の1球を思い出すと小さくため息を漏らした。


 「ああ、俺様以外の奴だったら取れなかっただろうな。」

 「…相変わらずの自信家だね、跡部って。」

 「あーん? 実際そうだったろ?」


言ってる台詞は普段と変わらないのに、
静かな口調が耳元で心地よく響いてくるのはなぜだろう。



 「なあ、ひとつ、聞いてもいいか?」

 「嫌!」

 「何だよ。まだ何も聞いてねーぞ?」

 「じゃあ、答えたら鞄返してくれる?」

 「ばーか。そんな事心配してたのか?
  お前も案外しつこい奴だな。
  …鞄なんてちゃんと届けてやるつもりだったぜ、最初からな。」



がそろりと起き上がってみると、自分にかけられていたレギュラージャージに気付いた。



 「お前、なんで高校でテニス部に入らなかったんだよ?」

 「…なんで? なんでそんな事聞くの?」

 「もったいないからに決まってるだろ。」


跡部はチッと小さく舌打ちしたようだった。


 「もったいない?」

 「ああ。あれだけ打てれば氷帝の女子部なら間違いなくトップクラスだろ。
  男子部でも準レギュラーになれるんじゃねーか?」

 「…別にいいよ。」


は興味なさ気に手元にあるジャージを丁寧に畳みだした。


 「跡部はさ、なんでテニスやってるの?」

 「なんでって、好きだからに決まってるだろうが?」

 「じゃあ、いいじゃない。
  私、そこまで好きじゃないもの。」


は折り畳んだジャージを跡部に返すと、ゆっくりと伸びをした。


 「さてと、私帰るけど、鞄は?」


の言葉に跡部は何か言いかけた言葉を飲み込むと、
やおら自分の鞄との鞄を手に持って先に部室のドアの方へ歩き出した。


 「ちょ、ちょっと、跡部。」




自分の鞄を取り返そうと慌てて跡部の後ろについて部室を出ると、
あたりはすっかり夕闇で空がどんよりと翳りを落としていた。

鍵を閉めてなお、跡部はに鞄を寄越そうとはしなかった。

の鞄を持ってゆっくりと歩き出す跡部の後姿に
はおずおずと従うしかなさそうだった。






 「それにしてもお前の鞄、なんでこんなに重いんだ?」


寮まで送るつもりなのか、
と並んで歩く跡部がしばらくして口を開いた。


 「ええと、ドイツ語の辞書持ち歩いてるからかな。」

 「そういやお前、理系のくせにドイツ語、選択したままだったよな?
  …そんなにドイツが好きだったのかよ?」


跡部の呆れたような声には思わず本音を漏らしていた。


 「私だってこんなことになるとは思わなかったんだもの。」

 「こんなこと?」

 「あ、いや、その、なんていうか…。」


は自分で自分の言葉に動揺していた。



 「お前はてっきり文系選抜にそのまま行くかと思ってたぜ。」


跡部がなぜため息混じりにそんなことを言うのか、
は不思議そうに跡部を見やった。


 「私だって文系で頑張るつもりだったの!
  だけど、本当は文系より理系の方が好きだったのよ!」

 「なんだそれ?」

 「…いいよ、わかんなくて。」



ふてくされたようには唇をぎゅっとかみ締めると、
吐き出して楽になってしまいたいと思っている自分に心の中で苦笑した。


跡部にそんな事打ち明けて何になるというのだろう?


そう、テニスを上手くなろうと必死だったのも、
あまり好きじゃないドイツ語を選択したのも、
文系志望だと自分を偽ったのも、全部彼の好みに合わせていたなんて…。


    情けなさ過ぎる


そして努力してみても彼は振り向かないばかりか、
どんどん自分からかけ離れて行ってしまった。

テニスに魅了され、頂点を極めようとする彼の姿は凛々しかったけど、
彼はあまりにも尊大で神々しくて、
俗物的な自分が彼に近づくために取った行動は、
ことごとく卑しいもののように感じて、
どうあがいても彼を振り向かせることはできないと実感するだけだった。

彼を諦めるつもりで氷帝の高等部に入ったのに、
それでもドイツ語を選択したのは未練があったからかもしれない。



 「いいから言ってみろよ?」


不意に跡部は歩みを止めるとの進路を遮るように立ちはだかった。


 「な、何?」

 「お前は 好きでもないものを なんでやるんだ?」




好きでもないもの…。



そうあからさまに跡部に言われると、なんて答えていいものやら解らず、
は視線を泳がすばかりだった。



跡部は自分の何を知ってるというのだろう?

早くなんとか誤魔化せと、心の中の誰かが囁いている。

早く誤魔化さなければ、この聡明なダークブラウンの瞳によって、
何もかも引きずり出されそうで、はなおもためらった。




 「…好きになると思ったのよ。
  ほら、苦手だと思ってもやってみればそうでもないって事あるじゃない?」


そう答えるのが精一杯だった。



 「…それは自分のためか?
  それとも誰かに認めてもらいたかったのか?」


跡部の落ち着いた言葉が、じわじわと自分の心の奥底まで波紋を投げかけて来た。

は俯いたままぼんやりと自分の靴先を見つめていた。


 「あの技は…、零式は生半可な練習じゃ会得できねーよな。
  ま、最もお前の零式はまだ本物じゃあねーけど、
  あそこまでできるには相当努力したんだろ?」


の視界に跡部の靴先が入ってきた。


 「だったらそこまでやれた自分を褒めてやればいいだろ?」

 「何言ってるの?
  跡部、おかしいんじゃないの?
  自分で自分を褒めてどこが嬉しいのよ。」

 「あーん?
  だったら俺が褒めてやるよ!」



は自分の耳を疑った。


いつの間にか降り出した雨がぽつぽつと地面にシミを作っては消えた。

の靴先も跡部の靴先も、雨粒をはじいてるさまが妙におかしかった。

と、跡部が優しく自分を抱き寄せたことにはしばらく気付けなかった。

ひんやりと仕立てのいい生地の感触の向こうで、
生暖かい跡部の体温がじわじわとの頬や胸を包みだす。




 「俺が褒めてやる。
  お前は努力家だって…。
  最高にいい女だって…。」




サーッと激しく降り出した雨は跡部の言葉を消していき、
は思わず跡部を突き放した。

見上げるとそこには哀れんでるとしか思えない跡部の顔があり、
そんな表情を見てしまったは、
言い得ぬ不安と羞恥に身も心も冷え切ってしまった。



 「ばかにしてる。
  努力したって報われなきゃ意味ない。
  どんなに努力したって追いつけないのよ。
  そんな私のどこがいい女なの?
  あいつは私よりテニスが好きなのよ?
  ねえ、わかる?
  テニス以下なのよ。
  頑張ったのに…。
  勉強だって、テニスだって、あんなに…、あんなに…。」







泣くつもりなんてなかった。

まるで子供だ。

彼の前だって泣き言なんて言わなかったのに、
跡部に言わされたと思った。

段々激しくなる雨に打たれながら、
は氷帝寮まで走り続けた。


跡部がどんな思いで立ち尽くしていたかなんて思いも知らないで。

  




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2006.6.4.