その真っ白な日 1
大学生になってみるとバレンタインデーって
中・高の時ほど浮かれた気分でもないって言うのは
学生は勉学が本分なんだから、という建前を誰もが信じてる訳ではなくて
ただただもうあの頃のようにはお祭り騒ぎするほど若くないって言うか、
多分みんな妙に落ち着いてしまってるせいなんじゃないかな…、と思う。
商店街を歩けばバレンタインの宣伝は毎年ながら衰えを見せないのに
それらを見てももうなんだかどうでもいい気分になっているのは
昔みたいに誰でもチャンスがあるなんて信じてないせいかもしれない。
もうちゃんと大人な付き合いをしてるカップルに割り込んで
いきなり告白して三角関係になりたいなんて、誰が思う?
でも、高校の時はチョコをあげる相手に彼女がいたとしても
全然気にしないで贈っていたのはどうしてだろう。
義理でもなくて、でも本命にするほど覚悟はなくて
だめもとで、高校の思い出のひとつとして
氷帝のアイドルにチョコをあげたのが、今思うと本当に懐かしい。
本当に儚い夢みたいなひと時だった。
カリスマ的な有名人の跡部に恋をして
最初で最後のチョコをあげたら
3月のホワイトデーの時にお返しをもらった。
何をやったらいいかわからないから付き合えと強引に車に乗せられ、
今思えばデートの真似事のようだった。
有り得ないくらい緊張してしまって、跡部に連れて行かれたレストランでは
勝手が全くわからず、せっかく跡部が選んでくれたコース料理も
のどを通るどころか味さえもわからなかった。
どこに行きたいと聞かれても
跡部と二人で過ごせるなんて思いもしなかったから
どこがいいなんて言い出せる勇気もなく、
きっとこのまま夢は夢のまま、
相手に幻滅だけ植え付けて終わりなんだろうと漠然と思っていた。
それなのに行きたい所もないのならばと、
いきなり連れて行かれた跡部の部屋で一体どうしてそんな流れになったのか
私たちは愛を語ることなく体を重ねてしまった。
求められたのは欲望のはけ口なのだろうと諦めていたけれど
私にとってはこの先何年も思い出すことになるだろう初めての体験。
それが跡部だったことには何の不満もなかった。
ただ、その日がホワイトデーだったにすぎない、
そう思うくらいだっただけで・・・。
だから翌日跡部のベットの中で目を覚ました時は
これでようやく魔法は何もかも消えるんだと冷静になっていた。
ドアが遠慮がちにノックされ、傍らにいたはずの跡部が
不機嫌そうにドアの向こうの誰かに返事をするのがわずかに聞き取れた。
昨日の今日で、顔を合わすのは気まずかったけど
跡部にしてみればこんなのは日常茶飯事だろうから
なるべくこっちも後腐れないように平気な顔で帰らなくてはと
ただただそれだけを思った。
「…なんだと?」
「ですから、旦那様が景吾お坊ちゃまがおいでになるなら
一緒に朝食をとのことで…。」
「なんで今日なんだ?
・・・連れがいるんだぜ。」
「旦那様は連れの方もご一緒にとの事です。」
「何考えてやがるんだ。」
「ですが、だんな様は…。」
「そんなんじゃねぇ。
いいか、朝食には俺だけが同席する。
わかってるだろうな?」
「…景吾お坊ちゃまがそうおしゃるなら…。」
「ああ、まかせる。」
そんなやり取りが切れ切れに聞こえる。
どうやら私はここに長居をしてはいけないみたいだった。
もとより長居をしようなんてこれっぽっちも考えてはいないんだけど。
戻ってくる跡部の気配に私は今寝返りを打ったかのように
跡部に背を向けて寝た振りを決め込んだ。
跡部の視線をいくらか感じたようだったけど
数分後には跡部は黙って部屋を出て行ったようだった。
それからしばらく我慢した後、私は静かに起き上がると
手早く着替えを済ませた。
本当ならシャワーを借りたい所だったけど
いつ跡部が戻って来るとも限らない、私は乱れたベットをきれいに直すと
まるで悪いことをしているような気分でそっと廊下に出た。
「様。」
不意に声をかけられて心臓が止まるかと思った。
振り向くとそこには執事らしき品のいい男の人が立っていた。
「お食事は景吾様のお部屋でと伺っております。」
「あ、あの、私、用があるので失礼いたします。」
「ですが…。」
「あっ、本当にいいです。
そ、それより、出口を教えてくださいませんか?」
家まで車で送りましょうと親切に言って下さるその人の好意を
私は必死になって拒み、一目散に跡部の家を後にした。
後で思い返すたび、はしたない娘だと思われただろうな、
と顔から火が出るくらい恥ずかしかったけど
その時はただあそこから少しでも早く戻らなくてはと
そう思う事しか出来なかった。
家にはもちろん親友の所に泊まりに行っていると嘘をついていたから
私はまっすぐ帰ることもできず、
開いている24時間営業のファミレスを探して
やっと落ち着いてモーニングセットを頼んだ。
頼んだ割りに食べる気にもなれず苦いだけのコーヒーを啜った。
ぼんやりとした下腹部の痛みが跡部との夜を思い出させる。
あの逞しい腕に絡め取られ、彼の熱い肌に触れたのかと思うと
一人で勝手に顔が火照る。
初恋なんてこんな風にあっけなく終わってしまうのかもしれないと
私は片思いの時よりも辛さが倍になってしまった事に苦笑せざるを得なかった。
********
「お・は・よ!」
勢いよく肩を叩かれ私はつんのめりそうになった。
入学式も終わりやっと大学の講義に慣れてきた頃
学部の離れてしまった旧友とばったり出会った。
「何だ、か・・・。」
「何、その口の利き方は?
久しぶりに会う親友に冷たくない?
アリバイ工作した私に報告する義務があるでしょ?」
はにんまりと笑いかけてきた。
私は鞄を持つ手にぎゅっと力を込めるとなんでもない風に答えた。
「うん、その節はお世話になりました。」
「んで? あの日は跡部とどこへ行ったの?」
「ごちそうになっただけ。」
「へ?」
「有り得ないくらい豪華なフルコースを奢ってもらいました。」
「ふーん、さすが金持ちは違うわね。
それで?」
「・・・それだけ。」
「それだけ?」
「そう。会話も弾まなかったから呆られたんだと思う。
少しドライブして、送ってもらった。」
「嘘?」
私は曖昧に笑いかけるとそれ以上はごめんだと言わんばかりに
ずんずんと歩き出した。
次の講義の教室はここからかなり歩かねばならない。
は慌てて私と肩を並べて歩き出した。
「なんだぁ。
ホワイトデーにお返し貰う子は本命だって噂されてたのに。
ガセだったのかなぁ〜。がっかり。」
「なんでががっかりするのよ?」
「だって、親友の彼氏がお金持ちだといい事ありそうだと思ってさ〜。」
「意味わかんない。」
私は軽くため息をついた。
「そりゃあさ、は跡部君の事、お金持ちだからって
好きになった訳じゃないんだろうけどさ。
ねえ、それで春休み中は?
連絡とかなかったの?」
なおも食い下がるに苦笑した。
私だって少しは期待したんだ。
あれから跡部の事ばかり考えてる。
成り行きでそうなってしまったにせよ、私の中では大切な思い出になってる。
忘れようと思っても忘れられない。
それよりも知ってしまった彼の体温を思い出しては
もう二度と触れる事ができない現実に夜が来るたび泣いてしまう。
逃げ出したのは自分だけど、追ってくれなかった事を思えば
跡部にとって私の存在なんてないに等しかったのだと思わざるを得ない。
夢のようなひと時を味合わせてくれた事を感謝していた自分は
いつの間にかそんな幸せを教えられた事を憎む気持ちすら持ちつつあった。
「春休み中も何の連絡もないから
てっきり跡部君とラブラブなのかと思ってた。」
脳天気には口を尖らせた。
「そんなはずある訳ないじゃない?
たまたまだったんだよ。
卒業委員で少し親しくなった位だったし。」
には何でもない風に答えてみたけれど
言ってるそばから悲しい気分になる。
「そういうは上手く行ったんでしょ?
春休み中もずっといないんだものね。
女の友情って薄いなぁ。」
悲しい気分を打ち消すようにわざと明るくに振ってみた。
は水を得た魚のように
今まで話して来なかった新しい彼氏の話を夢中で喋り出した。
今頃、跡部はどうしているんだろう、
そんな事を思いながら並木の下を歩いた。
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