その真っ白な日 2
跡部が氷帝学園の大学部を休学してると私が知ったのは
真夏日に耐えられなくなってノースリーブを着る機会が増えた頃だった。
学部や学科の多い氷帝の大学部、それも外部受験者も多いキャンパス内では
例え幼稚舎から見知ってる同級生でも会う事は容易ではなかった。
だから跡部と学部の違う私が高校の時のように毎日顔を合わす確立は
ほとんど0%に近かった。
それでも目立つ彼の事だから噂話には事欠かないと思っていたのに
入学式の代表者にもその名前はなく、テニス部に他に知り合いのない私が
積極的に自分から働きかけなければ風の便りすら手に出来ないと言う現実は
不思議なくらい情けなかった。
でも、跡部に避けられてるんだと思っていたから
失恋は確定的で、一夜限りの夢は夢でしかなかったと自分に言い聞かせるだけだった。
今更、あの日どうして私を誘ったの?とは聞けない冗談だった。
その冗談を言う相手も私にはいなかった。
夏休みが終わって後期の授業が始まると
私は意を決して大学部のテニスコートに立ち寄ってみることにした。
女々しいと思われればその通りだったけど
なぜ跡部が学校に出て来ないのか、その理由だけが知りたかった。
自分からテニス部の人に声をかける勇気はなかったけれど
もしかするとその後の跡部の話を人づてに誰かの口から何か聞けるかもしれないと
そんな理由のためだけに一人でテニスコートに通った。
あれ以来にも跡部の事は聞けなかったし言わなかった。
テニスコートにはたくさんのギャラリーがいる事もあったが
高校の時ほどではなくなっているようにも思えた。
もうあの頃のようにみんなのアイドルを追っかける気分ではなくなったのかもしれない。
私だってお目当ては跡部だったのだから
彼の居ないコートはただの風景でしかなかった。
コートの中にいる人はみな同じような顔に見えたし
何か凄い技が繰り出されたのだろうと歓声に目を向ける事はあっても
真剣に見てる訳ではなかったから
コートに通う回数が増えても今までと何も変わりがなかった。
だから不意に誰かに肩を叩かれた時、それが誰なのか
瞬時には思い起こす事もできなかった。
振り返った私の目に入って来たのは、
たまに跡部に声を掛けていた同級生の忍足だった。
高校の時でさえ話した事もなかったのだから
テニスウェアを着ていない忍足はテニス部と全く繋がらなくて
なんで彼がここにいるのだろうと驚きの眼差しを向けるのがやっとだった。
「ああ、そない驚かんでもええやん?」
忍足は不躾に私の顔を見ている。
「自分、名前、何て言うん?
何となくどっかで見た事あるんやけど?」
昔付き合ってた彼女の友達とかを思い起こしてるのだろうか?
それだったら無駄な努力だと思う。
そう言ってあげた方がいいのかどうかはわからないけど。
「高校が一緒だったから見覚えがあるんだと思うよ?」
「ああ、そうやったっけ?
こない美人さんは忘れへんと思うんやけどな。」
忍足の言葉に私はぎこちなく薄く笑った。
高校の時の私は自分でもイケてなかったと思う。
勉強しか能がなかった私は地味な優等生だっただけで
派手なテニス部とは縁もゆかりもなかった。
跡部に恋したのだってテニス部の跡部にではなく、
その有能なリーダーシップと優秀な学力を持つ
生徒会長への尊敬の念が淡い恋心に変化しただけだ。
だからテニス部のレギュラーの事だって高校の頃から
噂でしか知らなかったし、興味も実際の所全くなかった。
「忍足君って大学でもテニス部なの?」
私の質問に忍足はがっくりとうな垂れた。
「なんや、俺のファンでもないんや?」
「えっ?」
「そやかてここん所、頻繁にコートに来てるやん?
誰がお目当てなんかな、ってちょっとした好奇心や。」
そう言って笑う忍足は
高校の時よりさっぱりと髪を短くしていたから
昔よりも若返った感じがした。
とっつきにくい感じがしていたものだけど
こうして並んで座っていると旧知の仲のような気さえする。
「俺はずっとテニス、続けとるで。
と言っても医学部は半端なく忙しいからな、
息抜き程度にぼちぼちな。
んで、そっちは学部はどこや?」
「さあ、どこでしょう?」
曖昧に答えたら忍足は目をぱちくりとさせた。
名前も学部も答える気のない私が珍しいのだろうと思う。
「随分秘密主義なんやなぁ?
今時こっそり片思いなんて流行らんで。」
「えっ?」
「やって、そうやろ?
ここで待ち合わせしとる風でもないし、
いっつも一人やし。
他の子みたいにキャーキャー追っかけしとる訳でもないし。」
「すごい言われよう・・・。」
「なんやったら俺が取り持ってやろか?
相手がおるんやろ?
相談に乗るで?」
流暢に流れ出てくる忍足の優しい文句に
頼りそうになってはたと気づく。
跡部の事を聞くなら一番親しかった忍足に聞くのが一番早いとは思うものの、
そうなれば半年以上も前の逢瀬の事も
それを未だに引き摺っている事も
何もかも知られてしまうのには抵抗があった。
何よりも今の自分の状態が
逆に忍足から跡部の耳に入る危険性に気付いて
そんなばかげた事を仕出かすほど神経は太くないと思い直す。
「ありがと。
でも、もういいの。」
「いいって?」
「忍足君の目に留まったくらいだもの、
それで何も変わらないんだからもういいの。」
「諦めるんか?」
忍足の言葉には答えず私は勢いよく立ち上がった。
すると忍足も立ち上がり、
真っ直ぐに私の方へ向き直った。
「なあ、それやったら俺と付き合わんか?」
忍足の言葉に驚かない訳ではなかったけど
高校の頃からの忍足の噂を思い出せば
その安易な口車は変わってない、と変な所で感心した。
そういう部分が私にしてみれば好きになれない所だったんだけど。
「私、流行らない片思い中ですけど?」
皮肉を込めてそう言った。
「報われなかったんやろ?」
酷い事を言われてるのにそれは感じなかった。
「だけどね、
忍足君とは比べようもない位好きなの。
それは高校の時から変わらないから。」
何気に私も酷いこと言ってる、と思ったけど、
忍足とはもう会う事もないだろうと思って
すんなり本音を言った。
跡部が凄く好き
今も好き
そう言葉に自分の気持ちを乗せたのは初めてかもしれない。
なんだかそれだけですっきりした。
それから私はもうテニスコートに行く事はしなかった。
未だに跡部の事を忘れられない気持ちは
認めてしまえばそれはいい形で私の中に残った。
手につかなかった大学の授業も本気で受けるようになった。
元々勉強は好きだったのだから
学生であるうちになるたけ教養と知識を身につけようと思った。
それは多分、もし跡部に再び会う事があった時に
見返したいという思いも少なからずあったとは思うけど、
卒業した時に自立できる自分を目指して
いろいろな資格も取っておこうと思ったからだ。
不思議なものであれから忍足とは学食や図書館でたまに会うようになった。
忍足は本気なのかどうか分からない冗談を
いつも通り挨拶代わりに言ってくる。
それを適当にかわしながら付き合えば
意外と物知りな忍足は良きアドバイザーだった。
「なあ、クリスマスはどないしてん?」
間近に迫ってきたイベントに浮き立つ気持ちもなく
私は忍足と並んでカフェテラスでコーヒーを飲んでいた。
「冬休みはずっとゼミかな。」
「相変わらずやな。
国民的イベントぐらい勉強忘れてもええんちゃうか?」
「学費を払ってもらってる身分ですからね。
それに年明けのゼミの発表会の手伝い、頼まれてるし。」
そう答えれば忍足は頬杖を付いたまま軽くため息をつく。
「何でもかんでも引き受けなくてもええやんか?
そない忙しくせなだめなんか?」
「そういう忍足君はもっと真面目に
医学生をやった方がいいと思うな。」
「俺はいつやって真面目やろ?」
じっとこちらを見つめてくる忍足の視線をするりとかわして
両手で持ったカップの中のコーヒーを覗きこむ。
忙しいくせに、医学部からはちょっと離れたこのカフェテラスに
忍足が来る理由なんて分かっていても分からない振りを通す。
叶わなかった初恋の夢の続きを
忍足で始めようとはサラサラ思っていないから
こうして息抜きのコーヒーをただ飲むためだけに忍足がいるなら
私は黙ってささやかな友達としての時間を共有する。
ただそれだけだ。
忍足とまったりコーヒーを飲んでいても
ふと考えるのは跡部の事だったりする訳で
今更忍足にそんな事を打ち明ける気にはなれない。
友達だからこそ言えないことだってあるはずだ。
ホワイトデーに連れて行ってもらった高級レストランの
最後に出されたデミタスコーヒーの味が
今までで一番美味しかったんじゃないかとさえ思っている。
バカみたいな片思いはまだまだ続いているのだ。
「いつになったら忘れるんや?」
あまり面と向かって今まで聞いて来なかったくせに
クリスマスイベントともなると
忍足でさえ背水の陣を敷くのか?
なんて、忍足の言葉に酷いことを思った。
「なあ、そいつは2年か?3年の奴か?
俺がそいつの事忘れさせてやる、言うてもだめなんか?」
いつの間にか忍足の側に長くいすぎたのだろうか、
友だちとして無難に接していたつもりだったし、
忍足がそこまで自分に本気になるなんて思ってもいなかった。
だから忍足の好意に顰め面をする自分を止められなかった。
友達だから正直に答えようと思うだけだった。
「私ね、好きだった人を今も大事に思っている自分が好きなの。」
静かにそう答えたら忍足はむすっと呆れた顔をした。
「そういうの、未練がましいんとちゃうの?
振られたんやろ?
報われへんのやろ?
ちゃんと現実を受け止めて次に繋げたらええねん。
俺は何もかもひっくるめて付き合う、言うてんで?」
「私、現実を受け止めてるよ?」
「どこがや?
全然受け止めてないやん。
諦めきれへんからその思いにわざと蓋しとるだけや。
その蓋開けんように必死になって重石を探しとる。
重石の為に他学部の授業出たりしてるやん。
資格取るのもええけどな、学生のうちにしか出きひんことかて
一杯あるんやで?」
「何も知らないくせに分かった風な事言わないで!」
「ああ、わからんな。
分かる訳、ないやんか!
は俺に一度だって昔の事は言うてくれへん。
知りたい思うても絶対口割らんやろ?
せやけどな、今日と言う今日はちゃんと言うたる。
忘れらへん、言うんやったらな、
も一度ぶつかってみたらええやん?
好きなら好き、ってもう1回、本人に言うたらええねん。
そんでちゃんと振られて来いや!!
俺が何とでもしてやるわ!」
とうとう忍足は友だちの境界線を越えて私に手を伸ばそうとして来た。
忍足にしてみれば私は不甲斐なく現実逃避しているようにしか見えないのだろう。
なんとも遣る瀬無くなって押し黙ったままカップの中を覗き込んでいたら
忍足はさすがに機嫌を悪くしたようで席を立って行ってしまった。
割とコーヒーは好きなのに、
また苦々しいコーヒーの思い出を作ってしまったと思った。
あと一口ほどに残った茶色い液体をぐるぐる回していたら
冷え切った頬に熱いものが流れ出てしまった。
言えるものならもう一度跡部に言いたい。
まだ好きだよ、苦しいくらい好きだよ、って。
それなのに跡部はここにはいない。
姿を消されてしまって一体どうやって
この気持ちを伝えたらいいんだ、と
何も知らない忍足に無性に腹が立った。
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