どんなに小さな呟きでも 2







寝心地のいいベッドのわずかにきしむ音に目が覚めた。


景吾、と愛する人の名を呼ぼうとしたら、
その前に唇を優しく塞がれた。



 「まだ寝てろよ。」

 「う…ん、でも…。」

 「起きるにはまだ早いぜ。
  それに、昨日は優しくしてやれなかったからな。」


跡部の言葉にちょっと眉をひそめて見せるけど、
久々に感じた跡部の逞しい体や愛撫が生々しく蘇ってきて、
恥ずかしくて思わず跡部の胸に顔をくっつけてみる。


 「ばーか。今更照れても遅いんだよ。」


の体を今一度ぎゅっと抱きしめたかと思うと、
何の迷いもなく跡部はさっさとベッドから降りてしまう。



 「もう行くの?」

 「ああ。今日は一世一代の大仕事だからな。」

 「そう…。」


今度はいつ会える?と聞きたい言葉を飲み込む。


 「だるいからって会社、休むなよ?」

 「何、それ…。」

 「今日着て行く服は俺が選んである。
  運転手にも言ってあるから車で行け。
  いいか、絶対遅れるなよ?」

 「?」


なんだかいつもの跡部らしくなくてはきょとんとしてしまう。

その間にも跡部は支度をどんどん済ませ、
昨日よりさらに上質なスーツに身を包んでいた。


 「景吾?」

 「じゃあ、先に行く。」

 「えっ、あ、うん。行ってらっしゃい。」


思わず口を付いて出た自然な言葉に跡部の顔が緩み、
困った奴だと言いたげにの傍まで戻ると、
ベッドの上に起き上がっていたにキスをする。


 「後から来るんだぞ。」


そう言い残して出て行く跡部をぼんやり見送りながら、
こんな風にいつか毎日跡部を送り出す事が出来るんだろうかとふと夢見てしまう。

でも、多分それは叶わない絵空事。

は決して表には出さないけど、
いつかこの恋には終わりがある事を心の奥深くに眠らせていた…。




跡部が愛してくれたベッドの中で
自分が抱えてる不安にいつものように無理やり蓋をした。

けれど、現実に跡部がいないと思うとそれだけで淋しくなってしまって、
ついつい跡部の枕を抱きかかえて残り香に包まれていたら2度寝してしまった。

会社に行きたくない気持ちもどこかであったけど、
さりとて跡部のいない屋敷に居残る度胸は全くない。

大体跡部より後に起きて会社に向かうなんて、
よく考えてみたら、あまりにも恥ずかしい話である。

は急に焦りだすと、手早く身支度を済ませ、
なんとか家人に気づかれぬまま屋敷を出たいと思ったが、
そんな事をあの跡部がさせる訳がなかった…。

結局1時間後には跡部の運転手に乗せられるまま、
の会社の、それも重役専用の地下駐車場へと送られてしまった。






       ********







がいつもの部署に着くと、社内はあり得ない位騒然としていた。

何があったんだろうと思っていると同僚が興奮気味にを窓際に引っ張っていった。


 「さん、知ってた?」

 「えっ? な、何を?」

 「うちの親会社が突然吸収合併されたのよ!!」



下を覗くと、玄関先にはどうみても報道関係と思われる集団がカメラや脚立を持って
右往左往している姿が見えた。

でも、と思う。

企業が買収されたり乗っ取られたりする事はある意味日常茶飯事、
倒産したなら大変な事だが、親会社が変わったところでそう驚く事もないような気がする。



 「でも、うちはなくなったりしないんでしょう?」

 「何言ってるの?大変な事になってるのよ!」

 「大変って?」

 「親会社は事実上買収されたも同然よ!
  それもあの有名な跡部グループの傘下になるって言うでしょ、
  上の連中も今朝知らされたばかりみたいで混乱してる。
  あの報道陣の数を見ればわかるでしょう?
  うちにしてみれば青天の霹靂って奴よ!
  だけどそれだけじゃないのよ!!」


跡部グループという言葉には正直眩暈がした。

今日休むな、というのは、跡部なりにを驚かせたかったのかもしれない。

まあ、跡部の父親はかなりのやり手と聞いていたから、
買収されたのであれば、うちの親会社も相応にその価値を認められての事だから、
手放しで喜んでもいいことかもしれない…。

同僚はさらに上ずった声でに話しかける。


 「それがね、どういうわけだかうちの会社だけ独立するらしくて、
  それも跡部グループの御曹司が若社長として直々に経営するらしいのよ。
  ね、すごいことでしょ?
  噂に聞く眉目秀麗なエリート社長に変わるのよ?
  上手くいけば…。」


同僚の話はすでにの耳には入って来なかった。

跡部ならその位の事を水面下で着々と準備する事は造作もないことだろう。

跡部と仕事でも係わり合いを持つことが出来るのは嬉しい事なのに、
なぜかは手放しでは喜べなかった…。

   






そうだ、あれは高校を卒業する前の事だったと思う。

跡部は氷帝大学に進むものの、跡部グループを支える次代の後継者として、
彼の父親の命で、大学に通いながら自社の経営を手伝わなければならなかった。

それはもう跡部としては当然想定の範囲内だったらしく、
忙しくなるとと会う暇がないのが困るがな、と自嘲気味に話していたのを
はふと思い出した。

そう、あの時から跡部の運命はある程度決まっていたのだ。

彼の父親が早く彼を一人立ちさせたがっていたことや、
やがて跡部家にふさわしい家系の者を跡部の嫁として迎え入れることを、
は重々理解しているつもりだった。

だから高校の時に両想いになれても、大学に入ったら多分自然消滅になるかもしれないと
幼くもそう思っていた。

自分はとてもじゃないけど、跡部の事を誰よりも好きだと自負していても、
ただ好きなだけでは一緒にいられない、とどこか冷めていたのかもしれない。

それなのに、跡部は…。




 「大学卒業したら、俺と結婚してくれねーか?」

 「えっ?」

 「俺はが好きだ。
  離れていてもこの想いが薄れる事はねぇ。
  だが、正直今の俺では、俺の思いを貫き通す事ができそうにない。
  だから4年だけ待ってて欲しい。」


は正直に話す跡部の気持ちが嬉しかった。

だけど、それだからこそ、も偽りのない言葉で答えるしかなかった。


 「私も景吾の事、好きだよ。
  でも、先の事は私には約束出来ない。」

 「?」

 「私は好きでマネージャーになった。
  景吾も好きでテニス部の部長だった。
  ね、これって誰にも指図をされたり、押し付けられたりじゃなかったよね?
  たまたまテニス部で私たちは出会っただけ。
  だからね、これからも、
  景吾は景吾で自由でいて欲しいし、
  私も私で自由でいたいと思う。」

 「だが…。」

 「ううん、約束なんてしなくたって大丈夫。
  私も景吾の事はずっと好きだよ。
  だからこのままでいよう?
  お互いにもっと大人になって、
  私がもっといい女になって、跡部がもっといい男になったら…。」

 「俺はいい男じゃないって言いたいのか?」

 「あ、拗ねてる?」

 「そこまで子供じゃねーぞ。」

 「クスクス。
  だけどね、いい男って言うのは、黙ってても自分の思いを貫き通すと思ったけど?」

 「…わかったよ。
  お前もせいぜいいい女で待ってろよな。」

 「はーい、善処します。」



あんな風に茶化したりしてはいけなかったのかもしれない。

だけど、あれはにとっても予防線のつもりだった。

お互いに自由の身であれば、自分の存在を相手に押し付けることもないし、
縛り付けることもない。

たとえ口約束だったにしろ、それが叶わなかった時、
跡部がそのことを気に病んだりしないで欲しいと思うから。

そうすれば跡部が独立した時には、最良の人が選べるだろうし、
自分も跡部を恨むことはないはず…。



大学生になると、部活で毎日一緒に過ごしていた緩やかな時間が
まるで贅沢な生活だったかのように思われた。

跡部と会うのもなかなか難しかったけど、
でも会ってしまうと離れがたくなってしまい、
お互いの愛を無言で確認するかのように体を重ね、
その後にやってくる会えない時間を思い出さないようにお互いの体にお互いを刻み込んだ。

そんな時、跡部は必ず愛してると耳元で囁いてくれるけど、
その魔法のように甘美な言葉は二人の逢瀬の間だけの呪文のようで、
それ以上でも、未来を指し示す言葉でもなくて…。

そう、あれから跡部もも、2度とお互いの将来については語らなかった。





       ********






 「さん、内線入ってるんだけど?」


ぼうっとしていたら、別の同僚に呼ばれては慌てて自分の机の電話を取った。


 「はい、企画1課のですが。」

 「遅い!」

電話口の声は嬉しくも不機嫌な彼氏の声で、
あ、だけど新社長って呼ぶべき?とは周りを意識しながら小さく返事をした。

 「な、何…。」

 「驚かねーのか?」

 「そんな事は…。」

 「ああ、そうだよな。なんたってこれはお前が望んだ事だろ?」

 「えっ??」
  

の周りでは未だに跡部グループの傘下に入った騒動で盛り上がっていたから、
誰もの電話の事は気にしてる風ではなかったけど、
はなぜか緊張したまま言葉を選んでいた。


 「いい男っていうのは不言実行、だったよな?」

 「あの…。」

 「とにかく、今から俺に会いに来い!」

 「申し訳ありませんが…。」

 「ごちゃごちゃ言ってないで今すぐ会いに来い。
  俺は今までの事をなかった事になんかするつもりはない。
  お前が何を考えてるかなんてお見通しなんだよ。
  いいか、建前がいるってんなら、今年度の企画書でも持って
  3分以内に上に来い!」
  

なんでここまで不機嫌なんだろうと訝しげに思いながらも、
は手元にあるありったけの書類の束を抱えると、
最上階直通のエレベーターのボタンを押していた。






       


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