どんなに小さな呟きでも 3
社長室と書かれた金のプレートが眩しくて、
はほんの少し部屋に入るのをためらった。
不言実行―それはが跡部に求めた言葉だったけど、
跡部がどんどんいい男になっていくのを目の当たりにすれば、
いやでも現実を直視して、ちゃんと諦めが付くだろう、
そんな風にも思っていた。
でも望んでいたのは高嶺の花となった跡部との距離が、
二人の仲を自然消滅させることであって、
こんな間近で、ちゃんと決別しなくてはならない状況に至るとは、
それこそ計算外の事だった。
それにこんなに早くその時を迎えるなんて少しも思っていなかった。
会えない日々は寂しく、会いたい気持ちは募り、
だけどその言葉を飲み込みながら、跡部との甘美な逢瀬が一日でも長く続けばいいと思っていた。
でも、跡部が動き出してしまったのなら、自分も踏ん切りを付けねばならない…。
軽くドアをノックして社長室に入ると、
上着を脱いだ跡部が腕組みをしたままディスクに浅く腰掛けていた。
朝見せた優しい眼差しはそこにはなく、不機嫌オーラがそこら中に立ち込めていて、
却っては跡部に嫌われるように振舞うには都合がいいと、
萎みそうになる決意を必死で胸の奥にかき集めるのだった。
「そんなとこに突っ立ってないでこっち来ればいいだろ?」
そう言われてもはドアを背に、それ以上近づくことはしなかった。
「社長就任、…おめでとうございます。」
ゆっくり言葉を紡ぎながら、儀礼的に頭を下げると、
跡部の眉が曇り、とたんに非難の色を深めた目つきで睨まれた。
「そんな言葉を聞きたくて呼んだんじゃない。」
「では、今年度の企画案の説明でも…?」
「あぁん? お前本気で言ってるのか?
…じゃあ、聞くが、
この海外進出のための事業部立案はどういうことだ?」
跡部は机の上のブルーのファイルを取り上げ、
怒鳴りつけたくなる感情を必死で抑えてるかのように、
反対の手で額を押さえている。
ああ、もうその件の存在を知ってしまったのか、とはため息をついた。
入社したてのが自ら希望して、密かに着手していた新事業部設立案。
上手くいけば秋頃には向こうで本格的に仕事を始めるつもりだった。
「わが社にとってこの先の取引を有利にするための事業部です。
ニューヨークに支店を作れば、かなり将来的に
展望が開けるとお分かりいただけると思いますが…。」
「ああ、それはわかってる。
が、なんでお前が筆頭になって海外事業部に派遣される所まで決定してあるんだ。
俺は何も聞いてないぞ。
つうか、なんで俺に向かって敬語なんだ。」
「分をわきまえてるつもりですけど。」
の抑えた抑揚のない口調に跡部はますますイラついて、
ついには手元のファイルを机に叩きつけた。
「。俺はお前の上司になるつもりでここにいるんじゃないんだぞ。
俺は…。」
けれど、書類を抱きかかえた両の手に力を込めると、は跡部の言葉を遮った。
「社長と平社員。
ねえ、もう学生の延長で恋愛ごっこするのはやめない?
どう考えたってもう無理だよ。」
「なんでそうなるんだよ?
俺たち、朝まで愛し合っていただろ?
なんで数時間後にそんな結論になるんだ!」
「時間なんて関係ないんだよ。」
「なんだと?
俺はあの時の約束を…。」
「約束なんてしてないわ。」
は声が震えそうになるのを悟られまいと、
必死で早口でまくし立てた。
「そうね、確かに景吾は約束どおりいい男になったと思う。
遊ぶのにはお金は余りあるほど持ってるし、
ルックスはいいし、体の相性もいいし、
ほんと退屈しなかったけど、景吾の家柄は重過ぎるのよね。
私、今は仕事も順調だし、ニューヨーク支店に行けば給料も上がるし、
そうなれば別に景吾と一緒にいる必要もないし。
ね、なんとなくダラダラと続けてきちゃったけど、
今日で何もかもお終いにしようよ。」
「、俺の前で強がるのは止めろ。
俺がそんな言葉を少しでも信じると思ってるのか?
俺は言ったはずだ。
4年前、お前をいつもそばに置くには力が足りなかった。
そのせいで今日までに寂しい思いをさせていたのは充分わかってるんだ。」
「何言ってるの…。」
「ああ、お前は俺には絶対言わなかったよな。
けどな、会えない時間が長ければ長いほど、
お前は俺の腕の中で寂しかったっていつも呟いてたんだぜ。
無意識だったんだろうし、気にもならないくらい小さな声だったが、
でもあれがお前の本心だと、俺はいつもその言葉をバネに頑張ってきたんだ。
に早くその言葉を言わせねーようにとな。」
今まで不機嫌だった跡部の顔がふっと緩むと、
跡部は一歩一歩に近づいてきた。
「…なんで寝言なんて気にするのよ、バカじゃないの。」
「ああ、どうしようもないバカだよ。
やっと誰にも文句言わせないくらいの力をつけたというのに、
肝心のが素直になってくれねぇなんてな。」
乱暴に引き寄せられては思わず抱えていた書類を床にぶちまけ、
なおも跡部から離れようと抵抗した。
「…やだ!」
「それで俺を振ってるつもりか?
この俺様がお前をそんなに簡単に諦めると本当に思ってるのか?
、お前は何も気にするな。
何も考えるな。
俺だけを見てろ。
俺だけがお前を幸せに出来るんだ。」
「だ…め…だよ。
私は、景吾を幸せになんてできない。」
抱きしめようとする跡部の腕を振り払って逃げ出そうとすると、
それ以上の力で無理やり跡部の胸にきつく抱きとめられた。
「お前が幸せになるんならそれだけでいいんだ。
幸せそうなお前を見るのが俺の幸せなんだから。
だから。」
優しく諭すように話す跡部の声がの思考回路を麻痺させる。
熱いものが目の淵に溜まり出して、言葉とは裏腹に、
はもう完全に跡部の腕の中で観念していた。
「それ以上言わないで…。」
「いや、俺は何度でも言う。
、お前を愛してる。
だから、俺の傍にいろ。」
泣き出してしまったを優しく抱きしめながら
跡部は何度もの柔らかな髪を撫で付けていた。
「これからはどんな我侭だって聞いてやる。
いや、愚痴なんてこぼす暇がないくらい一緒にいてやる。
俺をこんな風にさせてるのはだけなんだぞ。
わかったら泣くな。」
ずっと言って欲しかった言葉を一度にこんなにもたくさん言ってくれた事が嬉しくて、
はただただ頷く事しか出来なかった…。
泣き疲れてまだ鼻の奥がツンと痛くて仕方なかったけど、
なぜかは跡部に手を引かれるまま、
普段は大会議場となってる一室に設けられた記者会見場に座らされていた。
眩しく炊かれるフラッシュに戸惑いながら跡部を見上げた。
「け、景吾?
なんで私まで…?」
「逃げるなよ。」
口の端だけでニヤリと笑う景吾はぎゅっと繋がれた手に更に力を込めてきた。
「不言実行って奴だ!!」
社長就任の会見場が、
あっという間に跡部家御曹司の婚約披露会見となってしまった事に気づいた時には
はもう平成のシンデレラの扱いとなっていた。
「景吾…。」
「言っただろう?
不言実行だって。
は何も心配しなくていいんだよ。」
繋いでいた手の甲にキスを落とされ、
その瞬間を雨あられの様なフラッシュに見舞われ、
はただただ放心するばかりだった。
「だからって、私の了解は取ってよね!」
小さくため息つくの独り言に跡部が笑いながら答えた。
「ああ、今度からはそうするぜ。」
The end
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☆あとがき☆
わわわわ…、収拾つかなくてすみません。
長引かせて自滅…みたいな?(笑)
自分的跡部祭りはそろそろおしまいにしようかな。
でも、跡部も好きだよvv
2006.10.14.