どんなに小さな呟きでも 1
「さん、あと、お願いしていい?」
壁にかかった時計は寸分違わず5時を指し示し、
すでに片付けられた机の上にはもうバックが乗せられている。
同僚の子達にやんわりと仕事を押し付けられ
もう嫌とは言えぬ状況を作り上げてるくせに…と心の中で思っていたとしても、
ここは女優張りの笑みを上っ面に張り付かせて
期待してるであろう台詞を言わねばならないのだろう。
「ええっと、そんなにかからないと思うから大丈夫よ。」
「ごめんね〜。でも約束の時間に遅れるわけにはいかないし。
今度さんに用がある時は遠慮なく言ってね?」
そんな風に笑顔で言われても、その気のない事位もう分かり過ぎるほど分かってる。
覗き込んだミラーをパチンと閉めて、あたふたと帰る同僚の後姿を見ながら、
は軽くため息をつく。
入社して3ヶ月。
そこそこ仕事も任せられ、自分なりに配分を考えて時間内に切り上げるコツも
掴んで来たものの、仕事ができるという事は、それなりにできない人の分まで
仕事が回って来てしまう事に、解せないものを感じる。
確かにの仕事をこなす処理能力の速さと丁寧さは上司にも認められてはいるが、
かといってに比べてあまり仕事をこなさない同僚たちの評価が下がるかというと
そうでもないのだ。
彼女たちの実に見事な別の意味での要領の良さが、仕事の価値以上に功を奏している。
そう言えば、高校のテニス部のマネージャーをしていた時に、
クラスメイトの忍足が言ってったっけ。
はな、できる子〜なんやけど、要領が悪いんやろな。
同じ事してても目立たへんゆうか、上手く立ち回らへんゆうか、
貧乏くじばっか引いてるちゅうか…。
ああ、でも、そこがのええとこなんやから、
全然気にする事ないんやで?
「何年経っても要領が悪いのかな、私。」
は懐かしい忍足の言葉をふと思い出しながら
机の上の書類に手を伸ばした。
そうだ、仕事が終わったら忍足に久しぶりに電話してみよう。
そんな事を思いながら電卓片手に書類の数字に眼を走らせた…。
********
「なんや、、久しぶりやな?」
仕事に区切りを付けて、が携帯に手を伸ばしたのは7時半を過ぎていた。
「忍足、元気?」
「ああ、俺はいつでも元気やで?」
卒業しても相変わらず飄々としてるなあ、なんて声だけで判断したら悪いのだろうか?
でも、電話がかけやすいと言う点では忍足の右に出るものはいないような気がする。
「今何してるん?」
「うーん、残業が終わったところ。」
「偉い頑張ってるやん?」
「そう思う?」
「違うんか?」
のんびりした口調の合いの手がどこまでも優しい。
「あのさ、忍足。」
「何や?」
「この後暇だったりする?」
は思い切って聞いてみた。
別に告白する訳でもないのに、なぜだか忍足の返事を聞くのが怖いような気がして、
次の言葉が出るまでの間を知らず知らず計ってしまう…。
「…ああ、別にかまへんよ。」
「ほんと?」
「けど、がほんまに誘いたいんは俺とちゃうやろ?」
電話口でクスッと笑われたような気がした。
「そんなことないよ。
誰に電話かけようかなあ、と思った時に1番に思い浮かんだのが忍足だったんだから。」
「ほんまか?」
「だって忍足だったらだめって言わないでしょ?
忍足って昔から優しいし、私の愚痴もちゃんと聞いてくれるし…。」
「なんや、結局愚痴りたいんやな?」
「あっ、えーと、それだけじゃない…と思います。」
は慌てて答えた。
「まあ、ええわ。
なんかおいしいもんでも喰いにいこか。」
「うん!」
「ほなら、Pホテルのロビーで待っといて。
8時少し過ぎるかもわからへんけど、絶対行くから…。」
の期待通りに応えてくれる忍足に甘え過ぎてるとは思う。
本当はにも電話をかけたい相手はいるのだけど、
こんな職場でのちょっとした愚痴を彼の前でこぼす勇気はにはなかった。
大体忙しい彼が突然電話して時間を割いてくれるかどうか怪しいものだった。
たとえ時間を割いてくれたとして、
その彼にちっぽけな愚痴を言ったところで何になるだろう?
くだらねぇ…きっと彼はそう言う。
そして多分、その言葉を聞いてしまったら
は彼のそばにいられなくなる、そんな風に思っていた。
高台にあるPホテルのロビーは人待ちの客でそこそこ混んでいたが、
は空いていた窓際のソファに腰を下ろすと、
夜の街の明かりをぼんやりと眺めていた。
8時少しを回っても忍足はなかなか現れなかった。
は携帯の画面を見つめたまま、
リダイヤルボタンを押そうかどうかと悩んでいた。
と、いきなり現れた大きな手がの赤い携帯を両の手から抜き取った。
「け、景吾?」
そこにはいるはずのない人物がネクタイを左手で緩ませながら
携帯の液晶画面を見ている。
「そんなに忍足の奴の方がかけやすいのか?」
「だ、だって…。」
「なんだよ?」
「景吾、忙しいと思うから…。」
久々に見る跡部は髪が少し伸びていてスーツ姿がカチッとはまっていて、
どこから見てもカッコよすぎる。
「えっと、忍足が景吾に連絡したの?」
は恐る恐る聞いた。
「ああ、一応あいつは俺のダチだからな。」
事も無げに言う跡部の言葉に脱力しながら、
やはり忍足は味方にするには曲者過ぎたのだろうとはため息をついた。
「で?どうするんだ?」
「えっ?」
「俺がお前のために時間作ったんだ。
無駄にすんのかよ?」
そう言って笑みを浮かべる跡部を間近で見たせいか、
頷く事もできずに一瞬見惚れていた自分に気づき、
慌てて熱くなった両頬を隠そうとしたら、
跡部はさっさとの腕を掴んで歩き出す。
ホテルの正面玄関に止めてあった車に乗り込むと、
「出してくれ」の一言で運転手も黙ってエンジンをかける。
「景吾、どこに行くの?」
跡部は黙ったままの肩を引き寄せ、の顔を自分の胸にもたれさせ、
軽くため息をついた。
「仕事、きついのか?」
「えっ?そんなことないよ。全然平気。」
「全然平気…っか。
忍足には愚痴ろうと思ってたんじゃねーのか?」
「うーん、別に仕事がどうこうって訳じゃあ…。」
「じゃあ、なんだよ?」
何って言われても困る。
すんなり素直に言えたら跡部が困るに決まってるんだから。
同僚たちはの恋人は滅多に会えないくらい遠い所にいると思っている。
だから同僚たちが簡単に仕事よりもデートの方を優先してしまって、
暇に見えるに仕事を押し付けてくる事が、
いくら仕事が嫌じゃなくても、跡部に会えない時間が仕事量として目に見えてしまう現実に、
つい忍足あたりに聞いてもらわないとどうにもやり切れなかっただけ。
「お前はいっつもそうだな。」
「何が?」
「俺にははっきり言わねーよな。」
「そ、そうかな。」
「ああ。…その代わり、俺はお前の言った事なら
どんなつまらない事でも忘れねーけどな。」
つまらない事って何よ?ってがむくれると、
跡部は優しく子供をあやすかのように頭をポンポンとすると、
今にわかる、とだけ呟いた。
車は結局跡部の自宅に真っ直ぐ向かったようだった。
ここに来るのも本当に久しぶりだった。
跡部は屋敷の方へは入らず、の手を握ると、
英国風庭園ではなく、その奥にある和風庭園の方へと行くようだった。
「景吾?」
「ああ、今にわかる。」
月明かりの中に大きな池が黒々と見える。
なぜか今夜は庭園に設置されてるはずの外灯がついていない。
物音ひとつしない池は一人で見ていたら不気味なんだろうな、
と跡部には悪いがそんな風に思っていたは、しばらくしてあっと小さく声を上げる。
池の淵で時々瞬く黄緑色の光が、あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆらと、
不思議な生き物がいるかのように浮遊している。
「あれ、もしかしてホタル?」
「ああ。」
「ほんものだよね!?
わあ、すごくきれい!!
私、ホタル見るの、子供の頃以来だよ。
すごい!」
興奮してはしゃぐは思わず池の方に走り出す。
不思議な波状の光の余韻を残しては消える光景に目を見張りながら、
つとの伸ばした白い指先にホタルがとまる。
やがて指の付け根で瞬き始めたホタルに、
はゆっくりとホタルを驚かさないように振り返ると
跡部にその小さな光を見せた。
「ねえ、宝石みたい。」
やがて羽を広げて飛び立つホタルを名残惜しそうに見遣ると、
は改めて黙って立っている跡部に寄り添った。
「景吾、もしかして…。」
「気に入ったか?」
跡部があまりにも満足そうに微笑むものだから、
は会えない日々に悶々としていた事もすっかり忘れ、
こんな風に人を驚かせる事が上手すぎる跡部には絶対敵わないと思うのだった。
「でも、あれって去年の話だよね?
ホタルが見たいなって言ったら、確かもう時期が過ぎてるって言われて…。
景吾、覚えていてくれたんだ?」
ありがとうってが言う前に、跡部の顔が近づいてきて、
ぎゅっと抱きしめられるままに唇を塞がれた。
瞳を閉じてもホタルの黄緑色の光が瞼の裏にも見えるような気がして、
なんて幸せなんだろうと跡部の首にしがみつく。
何度も口づけされ、息もつけないくらい離してくれないから、
跡部も会えなくて淋しかったって思ってくれていたのかな、
と、もうホタルどころではなくなっていく自分を持て余しながら心の中で安心する。
「今日は泊まっていくだろ?」
耳元で囁かれて、見透かされたようで顔が熱くなる。
「いいけど、明日は仕事あるよ?」
「ああ、俺もだ。
だが、夜はこれからだろう?
会えなかった分も取り戻すぜ。」
跡部はそう言うと、の腰に手を添えたまま、
ゆっくりと母屋の方へ歩き出した。
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☆あとがき☆
なんとなく敬遠していたのに跡部が書きたくなって〜。
跡部と過ごす「ホタルの夕べ」がキーワード。(笑)
ホタルだけの話にしたかったけど、つい萌えは止まることなく後編へ?
2006.8.19.