君がいないと    1








 「、すまない。」


苦笑する彼は言いづらかったであろう言葉の後にそう付け加えた。

彼なりの優しさだと理解していても
謝らないで欲しいと首を横に振るのが精一杯のの虚勢だった。

運動部が先輩後輩の縦社会であってもそれは表向きで
実は実力主義がものを言う下克上のルールは誰であっても逆らえない。

そう、それはマネージャーだって同じなのだ。

年季だけは誰にも負けないマネージャー暦は5年目になる。

テニスのルールも分からなかった
そつなくスコアを付けられるようになったのは乾のおかげだった。

けれど家事全般が得意なは男子の中では重宝がられていても
コートの中に入って彼らをサポートする事だけはできなかった。

それでも他にいろいろやる事はあったからテニスのできない
今までその事をコンプレックスに感じた事はあまりなかった。



 「大石が謝る事じゃないし。」

 「けど。」

 「仕方ないよ。
  私だって彼女の方が適任だって思うし。」

去年入って来たさんはマネの中で唯一テニス部経験者だったから
乾の助手として入部当初からコートの中へ借り出される事が多かった。

それは仕方のない光景だったけど
の踏み込めない聖域でレギュラーと同じ汗を流す彼女を
羨ましいと思う気持ちがなかったと言えば嘘になる。

その彼女が3年のを尻目にチーフマネージャに抜擢された。

チーフマネージャーはレギュラー専属のマネージャーであり、
ミーティングの参加はもちろん、対外試合の時は必ずベンチ入りもする。

今までチーフマネージャーは最高学年のマネがやる事になっていたが
今年はその序列が変わる事になってしまった。

適材適所、それは客観的に考えても合理的な判断だった。

 「裏方の仕事は慣れっこだし、
  今まで通りってだけでしょ?」

部活前にわざわざクラスの違うの教室にまで出向いて報告してくれた大石に
は努めて明るい声を出して彼の気遣いに応えた。

 「まあ、そうなんだが。」

 「だから、大石が気にする事じゃないって。
  これで今年、全国大会に行けるなら誰だってその方がいいって思う。
  私が気にしてないんだから、ね、大石も!」

 「あ、ああ、そうだな。」







そうは言ってみても、中学の時チーフマネとして働いたプライドは
やっぱり消えてなくなる事はない。

さんがレギュラーにとってとても重宝がられる存在だと認めても
その位置に自分がつけなかった情けなさからは逃れられない。

いつも通りの仕事を終え、準レギュラーコートの片づけをしながら
今日も一日レギュラーたちの練習風景さえ見る事ができない事実に
は思っても見なかったショックを持て余していた。

そんな醜い感情はひっそりと押し殺さなければ周りに心配をかけてしまうし
同情されれば更に惨めになるような気がして気丈に振舞うしか出来ない。

でもそれが辛くて辛くて片付けは遅々として進まない。

ボールの入ったカゴを倉庫に片付けようとしてつんのめると
をあざ笑うかのように黄色のボールたちはたちどころにコロコロと躍り出て行く。

思わず熱いものが目の淵に溜まりそうになっては慌ててボールたちに手を伸ばした。



 「手伝おうか?」


不意に声を掛けられては固まった。 

コートには自分しかいないと思っていたから
今このタイミングで声を掛けられるのは酷いと思った。

準レギュラーコートに場違いなその声に
さらっと答える自信がなくて振り向けなかった。

動かなければ、返事をしなければ、ますます窮地に立たされると言うのに。

 「ラケット使えば楽に拾えるのに。」

目の端に白いラケットが映った。

器用にボールを手前に転がしてひょいとラケットに乗せるその技は
が技と思ってるだけでテニス経験者なら誰だってできるもの。

でも、何回練習してもには簡単に拾う事ができなかった。

そんな事も出来ない自分がチーフマネなんて望めるはずもない。

ああ、また卑屈になっちゃう。


はコートの奥まで転がったボールを拾いに歩き出すとボールを手にしたまま
ついには溢れる涙を堪えきれなくなっていた。

泣いてしまってはますます振り返ることは出来ない。

だけど彼だけには見せてしまいたい願望がある。

弱った自分を優しく慰めてもらいたい願望がある。

人一倍気を遣う大石だと、逆に過剰反応して余計疲れそうだけど
同じクラスの不二周助は基本女子には優しいから
たとえ腹の底で冷たく醒めていたとしても
気遣うふりして優しく笑ってくれると断言できる。

チーフマネになれなくていじけてるを軽蔑したとしても
不二の表情は微塵もそんな事感じさせてくれない位完璧だから
自分が傷つく事はないだろう、そこまで考えてしまう。

一番卑怯なやり方だけど、浮かばれない気持ちを少しでも楽にしたい。


だけど_、とは思いとどまる。

泣き顔を見せて不二に優しく慰められて
それで全部消化できるとは思ってはいない。

同級生の労わりの言葉に一時慰められたとしても
明日になればまた自分の不甲斐なさを痛感してやりきれなくなるのだ。



 「どうしたの?」

心配そうな不二の言葉には目の淵に溜まった水分を
黄色のボールに浸み込ませるように拭い取った。

 「ううん、何でもない。
  それよりありがとう。
  今日の練習、どうだった?
  みんな調子いいのかな?」

ちゃんと不二の顔を見ることはできなかったけど
不自然じゃない位に俯いて他にボールが無いかと探す振りをした。

 「こそ、どうだった?」

 「えっ、私?
  いつもと同じだよ?
  でもこっちは賑やかだよ、そっちと違って。
  もっと締めなきゃなあ、って思うくらい。」

上手く笑えただろうか?

そんな事を考えながらボールをカゴに戻すとをそれを持って
倉庫の方へ歩き出した。


 「そっか。」

 「えっ?何が?」

ボールのカゴを倉庫の中に片付けながら
中途半端に聞き逃した不二の言葉を聞き返す。

振り返るとまさか倉庫の中まで不二が付いて来てるとは思わなくて
縮まっていたその距離の近さにドクンと胸が高鳴る。

選手とマネが二人で話すなんて今までだって何通りもあった事なのに
薄暗がりの倉庫の中は密室でもないのに秘密めいた空気が纏わりつく。

苦笑する不二の顔は一瞬しか見えなくて
気づいた時には鼻先にレギュラージャージの青と不二の体温。

抱きしめられてる前代未聞の状況にの声は音にすらならない。


 「そっちは賑やかにやってるなんて妬けるな。」

 「不・・・二?」

 「僕は全然調子が出ない。
  こんなに堪えるなんてびっくりなくらい。
  こんな事で左右されるなんて思ってもみなかったんだ・・・。」

ぎゅっと抱きしめてくるから何が何だか訳が分からないのに
不二の体温と呼吸とそして彼の発する言葉に
はただただ翻弄されて無意味に心拍数だけ上がっている。

落ち込んでるのは自分の方だったのに
なんで不二が落ち込んでるのかわからない。

5年もの間苦楽を共にしてきても
不二がこんな風にマネージャーである
胸のうちを曝け出すなんて今までになかった。

加えて言うなら、例え試合で負けて落ち込んだとしても不二は自分で解決する。

その優等生な彼が泣き言を言うなんて余程の事があったのだろうか?


 「ど、どうしたの?
  何か・・・あったの?」

たった一日とは言え、レギュラーコートにいなかったには
今日何があったのか知る由はない。

でも、自分のメンタルな悩みよりも選手の方が
にとっては最優先事項、それも普段滅多に弱音を吐かない不二なら尚の事。

は抱きしめられていた不二との間に距離を保とうと
やや強く彼の体を押し戻すと、不二はされるがままにを離した。

不二の行動には合点のいかない事もあるけれど
今はそれよりも、チーフマネではないにしても
同僚として最善のアドバイスをしなくてはとは一呼吸置いた。

 「ねえ、調子悪いって、どこか痛むの?
  それとも練習メニューが合わないとか?
  手塚には話した?
  それともさんには?
  もし言いづらい事だったら私から言ってあげてもいいけど
  でも、チーフマネにはちゃんと言わなきゃダメだよ?」

矛盾してるとは思いながらも
レギュラーの健康管理とメンタル管理はチーフマネの仕事だ。

 「別に・・・、チーフマネに言ったってどうしようもないよ。」

 「そんな事ないよ?
  さんは年下だけどなかなかしっかりしてるし、
  ちゃんと話せば不二のやりやすいように動いてくれると思うな。
  あ、でもいきなり抱きついちゃだめだよ?」

なんとなく押し黙る不二がイラついてるのが分かって
は自分の動揺を押し殺してそんな風に茶化した。

 「・・・しないよ。」

 「えっ?」

 「そんな事、する訳ないよ。」

サラサラの長めの前髪に隠れて不二の表情は見えなかったけど
小さく吐き出された言葉は明らかに気分を害していたようだった。

 「不二?」

 「ごめん、何でもない。」

 「えっ? 何でもないってどういう・・・。」

 「もう、いいんだ。」

見上げたの瞳に不二の悲痛な表情が一瞬映って
その視線には息もつけずその場に縫い止められたようになって、
我に返った時には不二の背中は暗い倉庫の中には見当たらなかった。

何だったのだろう?

ぼんやりする頭とは反対に胸の鼓動だけはリアルに早い。

不二と抱き合っていたと思い返すと顔は熱くなるけど
不二のいなくなった倉庫の中は逆に薄ら寒い。

なのに不二のいなくなった倉庫の中で
何か間違った事をしてしまったかのような不安に襲われて
一歩も歩き出す事ができなかった。












次の日からは仕事の合間を縫っては
そっとレギュラーコートの方を気にするようになった。

さんがコートの中に入ってきびきびと動いてる様を見るのは嫌だったのに
気づけばいつも不二の姿を探してコートを見回していた。

今では視界の中にさんを捉えても何の感情も沸かないけれど
不二がいつも通りの練習メニューをこなしているのかどうか
体調が思わしくないのかどうか
不二の動きの中に何かおかしな所はないかと
そればかりが気に掛かってついつい遠回りをしてでも
レギュラーコートのそばを通る自分がいた。

授業中だってそうだ。

同じクラスだったから不二の姿を眺めるのは不自然な事ではなかったけど
授業中も休み時間もいつも不二の後姿を追っていた。

あれから不二は何も言わない。

視線すら合わせようともしない。

今まで不二と気まずい事になった事もなかったし、
こんなに不二に冷たくされた事だって一度もない。

あの時、不二がを頼って来た時に
もっとちゃんと不二の話を聞けばよかったのだとは後悔していた。




 「?」

ぼんやりしていたら菊丸が自分の顔の前で手を振っているのに
やっと気づいてびっくりした。

 「何?」

 「どうした?」

心配そうな菊丸の目は人懐っこくて
いつも余計な事まで喋らされてしまうから
わざとつっけんどんに答えた。

 「別に、どうもしてないよ。」

 「そっかぁ?
  さっきから誰かさんのことばかり見てる気がする。」

声を低めて耳打ちする様に
何、訳分かんない事言ってるのよ、と呟けば
菊丸はすとんとの前の席に座った。

 「も気づいてんだろ?
  不二が変だって。」

 「えっ?」

大真面目な菊丸にはやっと本気で向き直った。

 「最近、ホントに調子悪いんだ、あいつ。」

 「菊丸は、原因を知ってるの?」

 「まあ、大体予想はついてる。
  俺とか桃とか乾とかはさ、全然オッケーなんだよ。
  ちょっとくらい小うるさく言われてもハイハイって素直に聞けちゃう。
  っていうか、返事だけなんだけどさ。
  ああ、越前もブツブツ言う割りに意外に反抗はしないな、一応あっちが年上だし。
  まあ、多分面倒臭いだけなんだろうけど、相手するのがね。
  大石は逆に気遣ってるから大丈夫かぁ?って、俺は大石の方が心配だったんだけど
  胃が痛くなるほどじゃないみたい。
  なんたって、大石は優しいしね。
  タカさんはラケット持ったらハイテンションだから問題外だし、
  あの海堂だってコートに入ったらマイペース全開だから気にしないし。
  うん、手塚は超越してるしね。」

ベラベラ喋るくせに肝心の事がわからない菊丸の話はまだ続く。

 「だけどさ、不二は受け付けないんだよ。
  不二はさ、人当たりいいし、割と何でも自己完結しちゃって
  外に出さないように上手く立ち回ってるように見えるけど、
  結構頑固なトコあってさ。
  今まで居心地良かった自分のテリトリーが荒らされると思うと
  全く受け付けないんだよね。」

わかる?なんてそこで意味深に笑みを漏らされても
はどうリアクションすればいいか分からない。

 「あのさ、、自覚ないようだけどさ、
  不二はさ、ああ見えてには凄く信頼を置いてたんだと思うよ?」

 「えっ?」

 「いや、俺たちだってこの5年間、いや今もだけど、
  は俺たちにとって信頼できるマネージャーだけどさ、
  不二のメンタル部分の平衡を保っていたのはの存在そのものなんだと
  俺は思ったね。」

 「だから?」

 「え〜、まだわかんないの?
  要するに不二は、チーフマネがじゃない事が許容できないみたい。」

 「な、何、それ?」



バカみたい。

バカじゃないの!?

は声を大にしてふつふつと湧き上がる理不尽な思いを吐き出したかった。

チーフマネになれなくて落ち込んで泣きたかったのは自分の方なのに
チーフマネが気に入らないからという理由でレギュラーが調子を崩してるなんて
そんな馬鹿な理由があるだろうかとは思いっきり眉間に皺を寄せて立ち上がった。


 「?」

 「そんな理由で? 冗談じゃないわ!」

 「いや、だからさ、がちょっと優しく・・・。」

 「私、ちょっと不二に文句言ってくる!」

 「ええっ? な、なんでそうなるかな?」


慌てふためく菊丸をよそに
今教室にいない不二を探しには廊下に飛び出した。








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