ラブ・パワー  5




 



      
幸村が走っている。

ゆっくりとゆっくりと。

そしてその歩みは次第にもっと遅くなって
こちらに向かってくる幸村を注意深く見れば
彼は時々歩いているように見えた。

それでも幸村は休んだりはしない。

明らかに重い足取りはまるで生気が感じられない。

それなのに一歩ずつの方へと向かって来る足は止めない。

フラッと倒れてしまうかもしれない、
そんな風に見えて、は居ても立ってもいられなくなって
思わず2、3歩幸村の方へ歩きかけた。

でもそれはいい事なのか分からなくて立ち尽くす。

その間にも幸村はに近づいて来るのだけど
今度ははっきりと息が乱れているのが分かる。

さっきまできっちり閉められていたジャージの前ははだけ、
ポロシャツはぐっしょりと濡れている。

尋常でない汗のかき方には思わず走り出した。

幸村の長い前髪はやはり汗で額に張り付いている。

きつそうな表情をその口元は外に出さないようにと
真一文字に結ばれているように見えた。

の胸はまたぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

走り寄るの姿を驚いた目で迎えてくれた幸村に
は無我夢中で幸村の体を押し留めようと勢い込んだが、
それは見た目とは違う幸村によって抱き止められる格好になった。


 「さん?」

 「もう、無理しないで!」

 「えっ?」

 「無理してる幸村君をただ見てるなんて・・・、
  私、私・・・。」

衝動的に走り寄ってしまったけど
口から出てくる言葉は支離滅裂で
何が言いたかったのかも分からなくなって来る。

 「幸村君は頑張るしかないんだろうけど、
  私は応援してあげなきゃいけないんだろうけど、
  でも辛いなら辛いって言って欲しい。
  何にも知らないフリなんて私は出来ないし、したくないし。」

 「さん、どうしたの?」

幸村がの肩を掴んで顔を覗き込めば
が心持ち潤んだ瞳で幸村を真っ直ぐに見上げて来た。

 「私、また幸村君が倒れたらって思うと・・・。
  ううん、そんな風になって欲しくないから。
  幸村君見てると、頑張るお手伝いなんてできなくて、
  心配で、な、何て言うか、
  幸村君の事ばかり気になって、
  もし無理してるなら私が止めなきゃって・・・。」

 「まいったなぁ。
  俺の事、そんなに心配してくれたんだね?」

幸村は嬉しそうに目を細めるとの肩をぐっと自分の体にくっつけた。

しっとりと濡れたユニフォームは幸村の体温でまだ熱かった。

 「それって俺の事、好きだって事かな?」

の体をぎゅっと抱きしめると同時に
幸村はの耳元で嬉しいな、と呟く。

一瞬息が詰まる。

でもは幸村の言葉で、ああ、そうなんだ、と気持ちが楽になった。

こんなにモヤモヤと幸村が心配なのは
すでに幸村の事が好きになっているって事なんだと気付く。

それを認めれば何が出来なくても、
幸村の側にいて何かしら自分に出来る事が
これから見つけられるかもしれない。




 「ああ、でも俺もちょっとやり過ぎたかなって思ってたんだ。」

 「えっ?」

 「こんなに動けないなんて想定外だった。」

訝しげに幸村の胸元から幸村を見上げれば
幸村はクスリと笑いながらの額にキスを落とした。

とたんに真っ赤になるに幸村は可愛いなぁと呟く。

 「ゆ、幸村君///」

 「ごめんね、さん。
  さんには心配かけ過ぎちゃったね。
  そんなに深刻にさせちゃうとは思わなかったんだ。
  でももともとは柳の作戦だから・・・。」

 「それは語弊があるだろう?
  作戦ではなく、ただの練習メニューを指南しただけだ。」

凛と響く柳の声には飛び上がった。

いつの間に二人の元に来たのか、
こんな姿を柳に見られていると思うと自然とは俯いてしまう。

恥ずかしさはいつもの倍以上だ。

だけど幸村はを抱きしめている両腕を緩めはしなかった。

 「柳こそ、無粋ってもんじゃないか?
  せっかくいい所だったのに・・・。」

 「よく言うな、コートから丸見えだ。
  それより俺の指示を無視しては本末転倒だろう。
  その重さで走るなど、体を壊すようなものだ。
  俺はそこまでやれとは言ってないぞ、幸村。」

 「ああ、でも案外いけると思ったんだけどな。
  結構きつくてびっくりだった。」

 「全く、が止めなかったらどこまで走る気だったんだ。
  まさか倒れればに介抱して貰えるなどと思っていたのではないだろうな?」

 「うーん、それでもよかったんだけど、
  そこまでしたら、さんを本気で泣かせちゃいそうだしな。」

 「全く付き合い切れないな。
  、あまり幸村を甘やかすな。
  幸村に基礎練など必要ないのだからな。」

ため息をつく柳の言葉にそっと顔を上げれば
幸村はどこ吹く風といった調子でニコニコ笑っている。

 「・・・どういう意味?」

 「ああ、まあ、正直に言うと
  さんが思ってる以上に俺は元気、って事かな。」

そう言っての体を包み込むように再度抱きしめて来る。

もう何度目になるか分からない抱擁だけど
強く抱きしめられては思わず小さく悲鳴を上げる。

つい力が入っちゃったと謝る幸村に
傍らで柳の大袈裟なため息が対照的だった。

 「幸村、とにかくそれは今すぐはずすんだ。」

窘める柳に幸村は仕方なく両手を上げて降参すると、
暑苦しい長袖のジャージを脱ぎそれをの手に渡した。

はきょとんとした顔で立ち尽くしていた。

幸村の腕には幅広のリストバンドがきりりと締められている。

幸村は無造作にベリベリとマジックテープを剥がすと
重そうなそれを柳に手渡した。

 「全く、非常識にも程がある。」

柳に促され今度は足に巻かれていた錘もはずす。

幸村は軽くなった腕をぐるぐると回して見せた。

 「ああ、なんか軽すぎてスカスカする。」

 「そう思うならコートに入れ。
  俺が相手してやろう。」

 「いきなり柳とだなんてやだな。
  柳の相手は頭使うから疲れるんだよ。」

本気で嫌そうな顔をする幸村に柳は容赦ない。

 「怠けようとするからだ。」

 「あ、あの。」

二人の会話になかなか入っていけなくて
は幸村のジャージをぎゅっと抱きしめたまま
不安げな顔で声を掛けた。

 「幸村君、本当にコートに入るの?」

 「さん?」

 「どうやらには釈明が必要なようだな。
  幸村、俺は先に戻るぞ。」

 「あ、ああ。」

 「、幸村に騙されるなよ?」

 「えっ?」

 「おい、柳!!」

 「冗談だ。」

してやったりの笑みを口元に浮かべて
柳はさっさと幸村に背を向けて去ってしまった。

がっくりと肩を落とす幸村をは瞬きもせず見つめた。

 「私、騙されてるの?」

小さく呟くに幸村は焦った。

 「君は柳の言葉を信じるのかい?」

 「信じてるって言ったら?」

 「ちょ、ちょっと待って。
  俺は別に君を・・・。」

 「柳君は冗談だって言ったよ?」


柳だって幸村がを騙してるなんて思ってはないだろう。

幸村の気持ちは柳だって知っているはずだ。

そんな事はにだって分かる。

でもこんな風に酷く狼狽する幸村なんて初めて見るとは思った。

別に幸村に騙されていた、と怒っている訳ではない。

察するに幸村は必要以上の負荷を課していたに過ぎないのだろう。

それはもちろんリハビリではなくれっきとしたトレーニング。

やり過ぎたトレーニングがの同情を引こうと思ってやっていたのなら
確信犯に違いないけれど
今となってはもうどうでもいい事の様に思える。

それでも聞いておきたくて淡々と尋ねる。

 「私の勘違いってことなんだ?」

 「ああ、まあ、そういう事かな。」

幸村は小さくため息をついた。

 「体が思うように動けないって本気で思ったのに。」

 「ああ、でもいつもの倍の重さにしたから
  嘘じゃないよ?」

 「無理してるんじゃないかって。」

 「無理じゃないけど。」

 「本気で心配したのに。」

 「俺だって本気だよ。」

幸村はきっぱりとした口調で言い放つ。

幸村の強い視線に縫い止められて
はもう何も言えなくなった。

 「俺は本気だよ。
  さんの事が凄く好きだ。
  さんがいるから頑張れる。
  かっこ良くてもかっこ悪くても
  全部さんには見ていてもらいたい。
  もちろん本音を言えば見ていてもらえるだけじゃ物足りない。
  俺の事だけ応援してもらいたいし、
  今日みたいに無茶な事は止めてって言ってもらいたいし。
  逆を言えばね、俺はずっと君と一緒にいたいんだ。
  ずっと見ていたいし、ずっと話もしていたいし、
  ぎゅって抱きしめたいし。」

幸村はに手を差し出した。

 「だから、嫌いになんてならないで。
  君を騙すつもりなんてないし、
  むしろテニスか君か、二者択一を迫られたら
  俺はあっさりテニスを捨てるよ。」

 「ちょ、ちょっと幸村君。
  私、そんな事言ってない。」

 「それ位君が大事って事。
  だって一度はテニスができなくなるって覚悟したんだし。
  3連覇なんて別にどうでもいいんだ。
  みんなの期待に応えるのが嫌って訳じゃないけど
  君の期待ならそれに応えたい。
  無理だって思える事も無理じゃなくなる。
  君のためなら何だってするよ?
  ね、だから仲直りしよう?」

 「仲直りって・・・、
  別にけんかした訳じゃ・・・。」

 「じゃあ、いいよね?」

幸村はの手を取るとゆっくりとを引っ張って歩き出した。

 「あの、幸村君?」

 「何?」

 「何って、どこに行くの?」

 「テニスコートに決まってるじゃないか。」

 「えっ、何で?」

形勢逆転だ。

有無を言わせぬ幸村を見上げると
幸村はニッコリと微笑んだ。

 「俺がちゃんとテニスできるとこ、
  さんに見せてあげなきゃ。
  いつまでも心配させてる訳にはいかないし。」

 「う、うん・・・。」

 「それに。」

幸村は握り締めているの手を
自分の口元に持っていくと軽くキスを落とした。

 「俺の彼女だって、みんなに見せ付けたいだろ?」

 「ええっ!?」

それは困ると立ち止まろうとしても
幸村の手はびくともしない。

今にも倒れそうなくらいに見えた幸村は
いつの間にかどこかに消えてしまったようだった。

幸村の頼もしい背中を見上げながら
幸村が元気ならそれは喜ぶべき事なのに
なぜか病室で見せた幸村の横顔が懐かしく思われた。

そんなの心の中をまるで感じ取ったかのように
幸村が振り向いた。


 「後で一緒に写メ撮ろうね。」

今度はちゃんとした奴、と幸村は笑って言った。


ラブパワー全開の幸村に対抗できるだろうか、と
幸せそうな幸村の顔をは眩しく見上げていた。

  



  




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2010.11.5.