後ろにも目を 4
放課後になっても私は上の空だった。
もちろんこんな事は、これが初めてだった。
緊張感の解けたざわついた教室内で
恋人役を全うしなければならないなら今すぐテニスコートに向かう所なのに
私はぐずぐずと机の中の物を鞄に詰めていた。
そんな私を見かねたのか、柳君が鞄を持ったまま私の机の前に立った。
「心、ここにあらずだな。」
「えっ?」
「どうした?」
どうしたと言われても返答に困る。
「柳君は・・・これから部活に行くんだよね?」
「いや、委員会があるから遅れて行く。」
テニスコートまで一緒に行って貰おうかと思っていたから
ちょっとがっかりしてしまった。
そんな私の表情を素早く読んだ柳君の目つきが光った気がした。
まあ、これまでテニス部なんて興味も持って来なかったから
普通に怪しまれるとは思ったけど。
「珍しいな。テニス部に用があるのか?」
「用って言うか、来いって呼ばれまして。」
「それは随分興味深い話だな。」
「嘘ばっかり。」
私は鞄を持つと柳君と一緒に教室を後にした。
「柳君は知ってたの?」
「何をだ?」
「だから、このネクタイの持ち主。」
ちらりと長身の柳君を見上げたが柳君は少しも動じる事無く答えた。
「いいや。」
「嘘。」
私は不満げに呟いた。
「嘘ではない。
ただ・・・。」
「ただ?」
「思い返せば、思い当たる節がなくもない、といった所だ。」
「思い当たる節って?」
「といる時に決まって視線を感じた。
偶然かと思ったがな。」
「やっぱり分かってたんじゃ・・・。」
恨みがましくもう一度見上げたら今度は柳君と視線が合った。
「生憎そういうデータに興味はないのでな。
例え確証があったにせよ、人に言うべき事でもない。
言われた所でも興味がなかっただろ?」
「それはそうだけど・・・。」
階段の所で柳君が立ち止まった。
委員会は3階の会議室で行なわれるらしい。
「しかし、がこれ程思い悩むとはな。」
「他人事だと思って。
私、本当に困ってるんだから。」
「困る事があるのか?
だったら尚更俺を頼るべきではないな。」
柳君がそのまま階段を上がろうとするから
私は思わず柳君の右腕を掴んでしまった。
「ねえ、ちょっと待ってよ。
ひとつだけ、仁王君のデータを教えてくれない?」
「なぜ仁王なんだ?」
柳君の目つきが変わって私の方がびっくりしてしまった。
「だって。」
「おかしな事を聞くな?
幸村の事を聞きたいのではなかったのか?」
「えっ? うん、まあ、普通はそうなのかな?」
柳君が呆れた表情を見せるのは良くある事だけど
何だか今日はもうとてつもなく見放されそうな目つきをされてしまった。
「は仁王の事が好きだったのか?」
今度は私が驚く番だった。
まさか柳君にそう突っ込まれるとは思っていなかった。
どうして今日は色々な事が滅茶苦茶に絡み合うのだろう?
私はもの凄い勢いで柳君に迫ってしまった。
「ど、どうしてそうなるの?
全然違うから!
そうじゃなくて、が仁王君に片思いしてるらしくて
でも仁王君が私に興味持ってるって言われて、
もしそれが本当ならどうにかしなくちゃいけないし。
幸村君は幸村君で私と幸村君が付き合わなきゃ
二人が上手くいかないみたいに言うし、
だけど私にできる事があるならの力になりたいし。
でも何をすればいいか分からなくて、
柳君に聞けば何とかなるかなって・・・。
だから。」
そこまで言うと柳君の眉間にはみるみる深い皺ができてしまって
さすがにこんな理不尽な頼みごとをしてしまった事に
我ながら恥ずかしくなって来た。
「あ、ごめん。
私、変だよね?」
柳君はかすかにため息をついた。
「要するに仁王とが上手くいけばいいんだな?」
「う、うん、そう!」
恥も外聞もなく私はぱっと顔を明るくして柳君を見つめた。
やはり柳君は優しくて頼もしい。
「なら、放って置くんだな。」
「えっ?」
意外なアドバイスに私は呆然としてしまった。
もっとこう何かデータに基づく確固たるアドバイスが
もらえるのだとばかり思っていたから。
「聞いてなかったのか?
そういうデータには興味もないし
言うべきものでもないと。」
分かる。
柳君の言い分も解ってる。
それでもそれでも何かしたかったのに。
なぜだか酷く自分が惨めに思えて鼻の奥がつんとして来た。
本当にどうすればいいのか自分では分からない。
こんな事も初めてだった。
「なんじゃ、お邪魔だったかの?」
柳君と二人っきりと思っていたから
不意に第3者から声を掛けられて私は思わず
柳君を引き止めていた腕を慌てて離した。
その離し方があまりにも不自然すぎたんじゃないかと思えて
明らかに誤解されたかもしれない状況に
言い訳をしようと思って振り返ったら、あの胡散臭気な視線に掴まった。
「柳、浮気はいかんぜよ?」
「ちがっ!」
私の反論より柳君の返答の方が早かった。
「何か、用か? 仁王。」
落ち着き払った柳君の態度はいつも通りだった。
「いや、何、真田のクラスはHRが長引いとるから
遅れると伝言を頼まれたんじゃが、柳も何かあるんか?」
「ああ、俺も委員会で遅れる。」
そんなやり取りの間も仁王君は物珍しそうに私を眺めていた。
私はと言えば固まったまま本当はかなりテンパってたのだけど
幸村君が視線をはずすな、みたいな事を言ってくれたおかげで
ぎこちなく仁王君をじっと見つめていた。
けれど内心はびくびくしていた。
演技が下手だからな
そんな幸村君の台詞が頭の中で木霊もしている。
自分がどんな顔をすればいいのかやっぱり分からない。
「すまないがを部室まで連れて行ってくれないか?」
「なっ、何を言うの、柳君!?」
それなのに柳君の言葉は全くもって理解不能だった。
「テニス部のか? またどうしたんじゃ?」
「一人では行かれないらしい。
では頼んだぞ、仁王。」
柳君は無情にも階段を登ってさっさと行ってしまう。
その後姿を呆然と見送っていたらそばでクスリと笑われた。
「頼まれてしまったなり。」
柳君に見放されて私はと言えば途方に暮れたまま。
放って置けば良いと言われても
このまま二人っきりにされて
万が一仁王君に何か言われたりしたら
上手く切り抜けられる自信は限りなく0%に近い。
どうしたものかと思いながらも
どちらにしろ毅然とした態度で幸村君の彼女を
演出しなければならないと覚悟を決めた。
「そんなにテニス部は敷居が高いかの?
一人で行かれんとはさんも意外なほどお子様だったんじゃな?」
「そ、そんなこと。」
「ま、俺もさんとは一度ゆっくり話してみたいとは思うとったんじゃが。」
仁王君はそう言ってゆっくりと階段を降り始めたから
私は慌ててその後にくっつくように続いた。
話してみたかったと言う割りに仁王君はそれきり黙っている。
ぴょこぴょこと揺れるトレードマークの後ろ髪を見上げるも
私はの事をストレートに聞いてみてもいいのかどうか悩んでいた。
柳に放っておけと言われれば
私が勝手な事をしてこの先仁王君との仲がこじれる事だって有り得る訳だ。
恋愛経験のない私だって
人の気持ちを本人からでなく代弁されて聞かされれば
それはちょっと違うと思わないでもない。
昇降口を過ぎてテニス部の部室まで悶々と歩いた。
テニスコートにはすでに下級生たちの姿が見える。
話しかけるきっかけが見出せないまま歩いていたら
部室の前で仁王君がいきなり振り向いた。
「さんは俺が苦手か?」
「えっ?」
唐突な質問にいきなり心拍数が上がってきた。
まさかまさか、ここで仁王君に告白でもされた日には
が悲しむ様は嫌でも想像できてしまう。
それだけは何としてでも回避しなくては。
「といる時とは随分態度が違うのぉ?」
「そ、そりゃあ、は一番の親友だし。」
「柳といる時とも全然違うぜよ。」
目を細めて切なげに見える仁王君の表情にどきりとさせられる。
雰囲気に飲まれてはダメだ。
私は仁王君から視線を外さないように目に力を込めた。
そうして頭の中ではひたすら幸村君の彼女になりきるんだと念じた。
「柳君は一番のライバルだし。」
「俺とも仲良くしてもらいたいもんじゃが、
いつもちーと冷たく感じるぜよ。」
「べ、別にわざと冷たくしてる訳じゃ・・・。」
「ああ、それともさんはツンデレなタイプなんかの?
俺は駆け引き上手な女は好いとーよ。
どうじゃ、俺と仲良く付き合わんか?」
仁王君の真剣な眼差しに心の中で泣きたくなった。
今までの自分なら無視をしてこの場から立ち去るだろう。
でもそうすれば仁王君の興味は益々膨らんでしまう。
のためにもここできっぱりと仁王君に気がない事を示さねばならない。
「それは無理。」
「無理?」
「私、ゆ・・・。」
勇気を振り絞ってもさすがに恥ずかしくてたまらない。
彼のにっこり微笑む顔が恨めしく思い出された。
私は息を吸い込むと一気に吐き出した。
「あの、だから、せ、精市と付き合ってるから!」
「何じゃ?
もう一度ちゃんと言ってくれんかの?」
人の名前を呼ぶのがこんなに気恥ずかしい事だとは思わなかった。
下の名前で呼んでね
確かに彼はそう言ったけど
仁王君の前で何も律儀にそこまでしなくても良かった筈なのに
言い直した傍から顔が熱くなる。
「だから、私、精市の、彼女だから、
仁王君とは・・・。」
「幸村の事が好きなんか?」
私の顔は真っ赤に違いない。
演技が下手でもいい。
幸村君に好きだと言われたのは事実なのだし、
私だって幸村君の事は嫌いじゃない。
そう、嫌いじゃ、ない。
「好 き。」
こんな経験、初めてだ。
自分が口にした言葉に感動するなんて。
じわじわ広がる感情に私の鼓動ははちきれんばかりだった。
「じゃと。
両思いじゃな、幸村。」
私の目の前にはやってられないといった風の仁王君がいた。
さっきまでの真剣な表情が嘘のよう。
笑いを堪えて飄々とした仁王君の視線は私の後方を見ている。
なぜだかとても振り向けない気がした。
そうしたら誰かの両腕がいきなり後ろから私を抱きしめてきた。
大きく見開かれた私の目の中に飛び込んできたのは
真正面に立つ仁王君の瞳の中に映っている人物だった。
それは間違いなく幸村君だった。
「名前で呼んでくれて嬉しいな、。」
私は自分の目と耳を疑った。
これはどういった事なのだろう。
またしても幸村君に不意を付かれて後ろを取られてしまった。
仁王君だって幸村君が近くにいるのを気取られないようにしていた訳だし
それを全く見抜けなかった自分が情けないくらいだ。
「な、何、これ?」
「これでさんは俺の親友の彼女じゃな。
これからもよろしくなり。」
目の前で仁王君が笑った。
「えっ?」
「心配しなくても仁王とは上手くいくよ。
これでダブルデートができるね。」
「ええっ!?」
混乱した頭にはなかなか二人の言っている意味が入って来ない。
「仁王は詐欺師だからね。
真に受けちゃだめだよ?」
「なっ!?」
「おいおい、幸村。
俺は嘘はついとらん。
彼女の友達として仲良く付き合おうって言うただけじゃ。」
「な、何、それ?酷い!
まさかも?」
「親友を疑っちゃいけないなり。
俺もがまさか幸村に相談するとは思ってなかったんじゃ。
でもまあ、親友思いのさんが見れてなかなか面白かったぜよ。
さすがは幸村の彼女じゃのう。」
仁王君は楽しそうにそんな事を言うと
あとはまかせんしゃい、とウィンク付きで手の平を振る。
部室へと消えて行く仁王君を私は黙って見送るしかなかった。
「ふふっ。さすがは俺の彼女だって。」
私の頭上で上機嫌らしい幸村君とは違って
混乱したまま、それでも普通に今の状況を的確に把握しようとすると
有り得ない状況に動悸がますます激しくなって来て
恥ずかしくて恥ずかしくて立っていられない。
いつの間にかギャラリーたちもテニス部観戦に集まりだして
部室前の私たちに気がついたようで悲鳴に近いものが耳に入って来る。
加えて私の視界の中にどよめいている下級生たちの好奇の眼差しを感じる。
有り得ない、有り得ない、有り得ない!!
もうどうしたってこれじゃあ私と幸村君の関係が
明日には学校中に広まるのは疑いようがない。
それなのに私の後ろにいる人は動じる様子もない。
「は、離して!」
「何で?」
「何でって。
恥ずかしすぎる。」
「いいじゃない。」
「良くない、全然良くない。
普通じゃない、有り得ない!」
みっともないけどじたばたともがく私に対して
幸村君は私の体を反転させるとそのまままた
ぎゅっと抱きしめて来た。
それはまるで私の顔を誰にも見せなくしてくれてるようで
ほんの少し恥ずかしさが薄れたように思えたけど
結局の所状況は何も変わってない事に気づく。
「ありふれた日常よりもっとずっと素敵になると思うよ。」
この状況を素敵と形容する幸村君に慣れるのはかなり努力を要しそうだけど、
今はこのままじっとしているしか無さそうに思える。
明日からどんな日常に変わってしまうのか
考えるのも恐ろしいのだけど
幸村君の腕の中が思いの外居心地がいい事に気づいて
色々考えるのは後にしよう、そんな風に思うのはやはり初めての事だった。
The end
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