願いの代償 3
「幸…村…君?」
私の背後から幸村の声が直に体を伝わってくる。
この状況をなんと形容していいものやらわからないけど、
とにかく目の前の後藤君の気分は最悪であることは間違いないようだった。
「幸村、お前噂は本当だったのか…?」
「だったら何?
さっさと引き下がってくれるんだろう?」
「いや、俺も立海大野球部のエースとして
おいそれと引き下がるわけにはいかないね。」
「だから野球部って嫌なんだよね。
9回裏ツーアウト満塁でサヨナラホームランできるなんて思ってる?
意味なく粘ったって人生の無駄だよ。」
「意味なく粘ったりしないよ。
さんは俺の事、嫌いな訳じゃないんだから。
俺だって勝算のない試合はしたくはないからね。」
「これのどこに勝算があるって?
俺も軽く見られたものだな。
ねえ、野球部を潰すくらい、俺にはどうってことないって解ってるのかい?」
幸村の腕は暖かいのに、その言葉はとても冷ややかで、
後藤君の表情が変わっていくのを黙って見ているしかなかった。
「野球部を…脅すつもりか?」
「脅す?
君たちが必死で隠してる不祥事のひとつやふたつ、
この僕が黙っていてあげられるのは今日までかな、って思っただけさ。」
「なんだと?」
「プロを目指す同士としてはさ、
ちょっとした不祥事を見なかった事にする位の度量は俺にもあるんだけどね。
君がさん以外の子を幸せにする位の夢はまだ見れるんじゃないかな。」
「…。」
一時はどうなるのかと思った張り詰めた緊張感は
後藤君の乾いた高笑いで跡形もなく消え去った。
「ははは。
幸村がそこまでするなんてな。」
「俺にも叶えたい夢があるからね。
手段を選ばないだけさ。」
「そうか…。
でも諦めるつもりはないって言ったらどうする?」
「別に。
野球部の後輩たちのことより、女を取ったって褒めてやるよ。」
明らかに上からの物言いに後藤君は不快感を隠す事なくきりりと唇を噛み締めていた。
やがて深くため息をつくと降参するように手を上げた。
「参ったよ。
ほんとに幸村は食えない奴だな。
お前が野球部にいなくてよかったよ。」
「心配は要らないよ。
天と地がひっくり返っても俺は野球なんてしないから。」
もう私のことなんて眼中にないかのような後藤君の後姿を見送ってると
耳元で幸村が囁くから私は免疫のないこの状況に再び身を強張らせた。
「ね、後藤なんてたいした奴じゃなかったろ?」
「あ、あの…幸村君?」
「ああ、御礼には及ばないよ。
最近野球部ってば調子こいててさ、
一度がつんと言ってやろうと思ってたのさ。」
何食わぬ顔でさらりと言う幸村の言葉に
私はお礼を言うべきだったのかとぼんやりと思ったが
問題はそこではなくて、と勇気を振り絞った。
「あの、この手をはずして欲しいんだけど…。」
「うん?」
意味が解らないと言いたげな口調にもかかわらず、
ますます力を込めて抱きしめてくる幸村に私はさすがに恐怖を覚えた。
「ゆ、幸村君、離して。」
「さん、俺はね、
後藤を退けるためにこんな事をしてるんじゃないんだ。」
「えっ?」
聞き返そうと思ったら不意に階段を上がってくる靴音に
私は敏感に反応していた。
柳に告白していた彼女の声が聞こえてきた位なのだから
恐らく後藤君のいきり立った声も届いていたかもしれないのだ。
「幸村君、誰か来るから、お願い。」
「誰か、じゃなくて、蓮・二・だろ?」
クスリと耳元で冷笑された気がした。
「君が悪いんだからね。」
それは一体どういう意味なのか、
私が幸村に何をしたというのだろう?
さっきの後藤君への態度だって、
一個人の告白劇がどうして野球部VSテニス部みたいな話になったのやら、
幸村の考えてることはまるでわからない。
「わ、私、幸村君ともテニス部とも
何にも関係ないって思うんだけど…。」
震える声で抗議してから私は数秒後に酷く後悔した。
「君の、その無関係な態度がムカツクんだよ!」
体育会系の部長なのだから見た目通りな
柔和な男ではないとは思ってはいたが
今までに聞いた事のない怒った口調に私は泣きそうだった。
「精市?」
「ああ、蓮二。
取り込み中だったみたいじゃない?」
私はもう、この時間、この場所に立ち会わねばならない事に
今すぐ自分の姿だけ消してしまいたい衝動に駆られ、
思わずダメもとで、幸村の束縛に対抗すべく両手で顔を覆って俯くしか手はなかった。
「いや、通りすがりに言い寄られただけだ、問題ない。」
「相変わらずだな。」
「おまえこそ…。」
気づかないで、そう心の中で必死に念じていたけど、
柳が私に気づいたところで何かが変わる訳でもないと、
このまま柳に無視されることも耐え難いものがあった。
多分、この試練に勝つことが出来たら
私は晴れて柳への片思いを卒業できるのかもしれないけど…。
「あれっ? 俺のは違うよ?」
幸村の声のトーンは先程とは違い明らかに楽しげだった。
「蓮二、俺の腕の中にいるのは人質なんだけど。」
「まさか…?」
「俺が強硬手段に出ないなんて予測不能だった?
ふふっ、甘いな。
俺と君の繋がりは決して切れる事はない、そうだろ?
ねえ、蓮二、俺はね、どんな事をしても
君を手放すつもりはないんだよ?」
さらりと言ってのける幸村の言葉は衝撃的過ぎて
私は柳と幸村の関係を今はっきりと知らされてしまった事に
頭がついていけなかった。
それで柳は誰とも付き合ってこなかったのか、とか、
は幸村のことを家庭的じゃないと言ってたんだ、とか、
結局報われない恋に無駄な時間を費やしてきたのか、とか、
けれどいくら納得いくように自答してみても
結局は有り得ない幸村の告白に困惑するだけで
さすがにバカらしいとは思うものの勝手に赤くなっている自分がいた。
「、…勝手に誤解しないでくれないか?」
柳には顔は見えないはずなのに
しっかりと名前を呼ばれたことに
嬉しいと思う気持ちと恥ずかしい気持ちで心の中は複雑だった。
「ははっ、そんな風に取られるのも悪くないかもね。」
「精市、冗談は辞めてくれ。とにかくを離せ。」
「やだね。」
「精市と言えど、に触れて欲しくない。」
きっぱりと言う柳の言葉に私は自分の耳が信じられなくて
思わず顔を上げて柳を見上げた。
今、なんて?
そこには私から視線を背けているくせに
妙に照れている柳の横顔があった。
「ふーん、そう思うんなら退部届けを取り下げてよ。
じゃなきゃ、は離してあげないよ。
せっかく後藤の魔の手から救ってあげたのに
そういう言い方するんだ?」
「今度は後藤か?」
「そうだよ。全くもやっかいな子だよね。
いつまでもうじうじしてるから色んな奴に告られてさ。
一体いくつ俺がもみ消してることやら。
ま、おかげでほとんどの体育会系の部活は俺の傘下だけどね。」
「精市、お前面白がってやってるだろう?」
「面白がってる?
とんでもない。
蓮二がまさか女のためにテニス部辞めるなんて言い出すなんて思わなかったからね。」
「や、柳君、テニス部辞めるの?」
私の間抜けな問いに柳は初めて私の視線を受け止めてくれた。
「ああ。俺の好きな奴はテニスに興味ないみたいでな。」
ふっと私の好きな笑みで返されて火照った頬に両手を当てたら、
後ろから回されていた幸村の腕がぐいっと首を締め上げる形に変わった。
「ね、だからが悪いんだよ?」
「っえ?」
「俺は大学部でも今のメンバーで全日本を目指す気でいるのに、
その夢をあっさりぶち壊してしまうんだからね。
もさ、蓮二の事が好きならもっとテニス部にも興味持ってくれなきゃ。」
「ええっ!?」
「…は、俺の事が好きなのか?」
「ちょっと、待った!!
両思いになるのはまだ早いからね。
!
蓮二にテニスを辞めるなって言ってくれない?
じゃなきゃ、二人の間を取り持つなんて面倒なこと、
俺はしたくないんだから。」
私は面食らいながらも、どうにか幸村の願いを叶えるべく
おずおずと柳をまっすぐ見つめた。
柳は私に向かってひとつ頷くと
苦笑いを浮かべながら幸村に答えた。
「わかった、テニス部は辞めない。
これでいいんだろ、精市?」
柳の言葉で私の体はすっと軽くなり
加えて背中に込められた力強い掌によって
柳の胸の中へと押されていた。
「悪いけどデートする暇はないからね?
それにには、ちゃんとテニス部の蓮二の彼女って立場を
わからせてあげてよね?」
幸村が文句めいた口調でそう言うと、柳はやれやれとため息をつきながらも
私を抱きとめてくれた両手は壊れ物を扱うかのように優しかった。
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「へえ、あの幸村がそんな事を?」
私と柳が一緒に教室に戻ってくると
はびっくりしたような目で迎えてくれた。
柳とこんな風に並んで歩く日が来るなんて
本当に神様に感謝しなければならない。
それでも、お互いにずっと何年も片思いをしてたなんて
呆れるほど骨董品並みね、と茶化されたけど。
柳が私のせいで退部届けを出したという話に及ぶと
は更に驚いて、身を乗り出して柳に問い詰めた。
「またなんでそんなこと思ったの?」
「いや、弦一郎が…。」
「弦一郎が?」
「デートもままならぬって嘆いていたんでな。」
「はあ/////?」
が言葉もなく唖然とする様にも全く動じない柳は
それが本心なのか私にもわからない。
「あれだけ活躍しても好きな奴が一度もテニスコートに来ないとなると、
さすがの俺もいろいろ考えたのだ。」
「柳君?」
「それなのには妙に幸村と話すと楽しそうだし。」
「そ、それは/////。」
「だから幸村を困らせるつもりでふと退部届けを出してみただけだ。」
「えっ!?」
「まあ、俺はの願う通りの将来を約束するぐらい簡単だがな。
とりあえず、今日から放課後はテニスコートに付合ってもらう。」
初めてテニスコートで柳の姿を目の当たりにした私は
本日何回目の衝撃なんだと自分に突っ込んでいた。
どうやら小さな頃にときめいた柳の姿はもう鮮明には思い出せないくらい、
今目の前にいるテニスプレーヤーの柳に私はもうまいってるらしい。
ポイントを取るたびに視線を送ってくる柳。
その熱い視線を独り占めにしてるのかと思うと
罰当たりな私は
プロで活躍する柳の奥さんになってる自分を想像しては、
この先幾度となく幸村から嫌味を言われるようになるのだ…。
「俺のおかげなんだから、ね。」と―。
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☆あとがき☆
思いがけず長くなってしまった柳夢を
楽しみにしてくださった皆様、
ありがとうございました。
2007.11.24.