沈黙の金
魔法に掛けられてしまった自分の大切な人を助けるために
茨で服を編む間、どんなに痛くても声を発してはいけない
そんな童話を昔読んだ記憶がある。
好きな人のためならきっとどんな困難でも乗り切れる。
でも今の自分はそれとは全く違った窮地に晒されていた。
担任から日直と言うだけで
日直の仕事以外を頼まれるのって理不尽だなと思う事がある。
それが先生の頼みやすい人と頼みにくい人がいるという理不尽さだ。
その面に関してははいつも前者だった。
職員室に日誌を置きに来ただけなのに
ついでとばかりに掲示板の古いポスターを剥がしてくれと頼まれた。
全く人使いが荒い、とため息をつきながら
背の低いに手の届きそうにない掲示物の多さに
担任の今ひとつ気遣いのなさを思わず恨んでしまう。
椅子を持って来るしかなさそうだと暫く掲示板とにらめっこをしていたら
不意にの肩越しに伸びる手に驚いてしまった。
いや、驚いたのはその手の主が要注意人物だったからだ。
「これを剥がせばいいの?」
柔らかに声を掛けられて
あっさり剥がされたポスターがはらりと落ちてくる。
慌ててそれを受け取りながらもはぎこちなく俯く事しかできない。
視線を上げなくても分かる。
同じクラスメイトの不二周助だ。
不二は器用に外した画鋲を掲示板の隅に並べて止めている。
「こういう時くらい、言うべき言葉があるんじゃない?」
少し棘のある言い方には思わず目を閉じた。
彼は分かっているのだ。
が不二にだけ言葉を紡がない事を。
当然と言えば当然だ。
同じクラスになってからはずっと不二を避けていた。
というより絶対に自分の視界に入れないようにと
慎重に無視を決め込んでいた。
分かりにくいその態度は、それでも大人しくて人見知りの性格ゆえの行動と
大抵のクラスメイトは認識するも
なぜか不二だけはこちらが常にアンテナを張ってないと
のテリトリーに踏み込もうとするきらいがあった。
だから用心していたのに。
間違っても誰もいない所で不二と相対してはいけないのだ。
はほんの少し頭を下げると逃げるように
その場を離れようとした。
が、今日の不二はいつもの不二とは違っていた。
その証拠に今は利き腕を不二に掴まれていた。
「ねえ、ちゃんと言ってくれないと分からないんだけど?」
まるで逃がさないと言わんばかりの力に
思わず視線を上げてしまった。
そしてはとても驚いてしまった。
そこにはいつも見せる不二のトレードマークの柔和な笑みはなく、
鋭い眼力に不二が自分に対して怒っているとはっきりと分かったのだ。
でも次の瞬間にはは掲示板の左右に自分たちを見ている人がいないか
確かめる必要があった。
こんな所を誰かに目撃されでもしたら取り返しのつかない事になってしまう。
不二の怒りの矛先よりもそっちの方が心配だった。
けれどその様子はますます不二に腹を立てさせる事となる。
「そんなに僕といる所を誰かに見られると困るんだ?」
まずい、と直感的に思ったものの逃げる事は出来そうになかった。
と言うよりも、不二は強引にの腕を掴んだまま
すぐそばの空き教室にを引っ張り込んだ。
ぴしゃりと閉じられた教室の中でその腕を開放されても
全く安心できるものではなかった。
「これで誰にも僕達は見られない。」
不二の言葉には必死で考える。
どう取り繕うか?
どう言い逃れるか?
いつかこんな日が来るかもしれない、と
思わなかった訳ではなかった。
でも気にして欲しくはなかった。
「今日は絶対に逃がさない。
さんが一体どうしてそんな態度を取るのか、
僕が納得する理由を聞くまで。」
だんまりを続けて不二が根負けするのを待つか?
それとも不二の事が大嫌いだから、と嘘がつけるだろうか?
同じ嘘の演技をするなら別の嘘を重ねるしかない。
嫌われたくはないけれど、
それ以上に自分から嫌いだと言ってしまうのはあまりにも辛すぎる。
は短く息を吐き出すといきなり頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「何で?」
「ちょっとしたゲームなの。」
「ゲーム?」
不二が訝るのも無理はない。
頭を上げても不二の顔を見る事はできなかった。
だから俯いたまま早口になるのは仕方ない。
「クラスメイトの誰かとずっと話さないでいられるかって。
そんな、どうって事ないゲームのつもりだったの。
だから不二君も無視してて欲しいんだけど。」
「へぇ。
それで、いつまで?」
「えっと、別にいつまでって決めてなくて。」
「じゃあ、何で僕なの?」
「た、たまたまなんだけど。」
不二の口調はまるで尋問だな、とは思った。
そんなに不快だったのだろうか?
確かにこの頃は不二がわざわざの近くまで来て
おはようと声をかけて来るのには参っていた。
頭を下げる程度でその場を濁して来たけれど
不二がそこまで怒る事でもないような気がしていたのに。
「たまたまね。
じゃあ聞くけど、何でそれをさんがやらされてる訳?」
はぴくりと肩を震わせた。
やらされている、という言葉の語調がなぜか強かった。
「だから、罰ゲームみたいなものなんだって。」
「それにしては随分強制力があるみたいだけど、
そんなに弱みを握られてるの?
例えばこうして僕と喋っている所を見られたら致命的な位に?」
「や、やだな、そんな事・・・。」
「ある訳ない、なんて風には見えないね。」
ちらりと視線を上げれば不二がかすかに息を吐いたのが分かった。
怒りを通り越して呆れている、そんな風に感じ取れた。
は全く居心地が悪くて手に持っていたポスターが
今にも落ちそうなくらい手が震えて来ていた。
「それで、どうすればこのゲームは終わるの?」
「えっ?」
「まさか僕が気にしなければずっと口を利かないつもりだった?
さんは平気なんだ?
もしかして僕の事は嫌い、とか?」
畳み掛ける不二の言葉にどうすればいいか、分からなくなって来た。
少なくとも不二はが不二と口を利かない事が平気ではない口ぶりだ。
それは不二特有の女の子への優しさ、だけなのだろうか?
それ以外に何か、なんて事があるはずはない。
は慌てて弁解する。
「ふ、不二君、大袈裟だよ。
単なる遊びなんだから・・・。」
「誤魔化すのはやめてくれないかな?
これはとても大事な事なんだから。
さんは僕が嫌いなの?」
「えっ、あの。」
「僕の眼を見てもう一度言える?
これは遊びだって、本気じゃなかったって。
僕の事を嫌っている訳じゃないって。」
いつの間にか答えを誘導されている。
「不二君を不快にさせたなら謝るから。」
「それも答えになってない!
君は僕とずっと口を利かないでも平気なくらい
僕の事はどうでもいいの?」
「だから、どうでもいいとか、嫌いとかそういうんじゃないから。」
「じゃあ僕を無視するのはもう止めてくれないかな?」
不二はぴしゃりと言い放った。
語尾の物腰の柔らかさとは程遠い、まるで命令口調だった。
が黙っていると不二はずいとその距離をさらに縮めて来た。
「僕が降参したと言えばこのゲームを終わらせてくれるの?」
「な、何言ってるの、不二君?」
「参ったよ。
本当に参ってるんだ。
このイライラした気持ちをどうしようもできないくらい。」
「ごめん・・・。ごめんなさい。」
詰め寄る不二にこんな風に苛立ちをぶつけられて
困惑しきったの目には涙がじわじわとせり上がって来た。
こんなはずじゃなかった。
不二と同じクラスになれた時は胸が打ち震えるくらい嬉しかったのに。
だけどこんな結末を選んだのは自身なのだ。
だから泣いて不二に謝るのは卑怯だと思った。
この期に及んで不二に嫌われたくないと思う。
けれど結果的に不二に嫌われた方が安泰なのだ。
クラスの中で村八分にされるなどには耐えられない。
手の届かないスターへの恋心をひっそりと守ればいいだけの話。
不二への思いを打ち明けたところで思いが実る訳ではないのだから
同じ茨の道ならば少しでも平穏にクラスに溶け込んでいたい。
不二への思いなんて所詮それだけの事、と自分を誤魔化すしかなかった。
でも今、それも見事に砕け散りそうだ。
涙が頬を伝う前には不二を振り切って教室から逃げようと試みた。
が、不二はものの見事にの正面に立ちはだかると
の体をしっかりと包み込んだ。
耳元に不二の息遣いがダイレクトに伝わって来た。
「こっちこそごめん。
君を泣かせるために言ってるんじゃないんだ。」
不二の制服が濡れそうで体を離したいのに
ますます力強くの体は不二によって抱き締められていた。
「やめて。」
「やめないよ。」
「は、離して。」
「離さない。
僕の好きな人が泣いているのに見過ごせない。」
「えっ?」
不二の言葉に呼応するかのようにの体から一気に力が抜けていく。
不二はの柔らかな髪をなでながら優しく語りかけた。
「僕は君と仲良くなりたいと思ってる。
いや、もう仲良くなんてレベルじゃ物足りない。
、僕は君が好きだ。
だから僕だけのものになって欲しい。」
「嘘。」
「何で嘘なんかつかなきゃいけない?」
「でも。」
「たちが怖い?」
不二の言葉には観念したように頷いた。
が思っている以上に不二は聡い。
人間関係の機微を不二は見逃さないのだろう。
何もかも分かっていたなら無視してくれればよかったのに、
でも不二が自分を無視できないほど気に掛けていてくれていたとは
これ以上の幸せはないに違いない。
「みんなに内緒で付き合ってもいいけど?」
不二はそう言って笑いを噛み殺した。
「内緒?」
「要するにたちにバレなきゃいい訳だろ?
学校では今まで通り口を利かなくても
こうやって二人きりの時に仲良くするのは問題ない訳だよね。」
「そ、それはそうだけど。」
「は僕が好き?」
改めて聞かれると恥ずかしくて答えに詰まる。
「いいの、かな?」
「いいんじゃない?」
「じゃあ。」
「じゃあ?」
ついでのように付け加えた言葉にダメ出しが出されてしまった。
「ううん。
私、不二君の事が好きです。」
「僕も大好きだよ。」
その日からはまた前のように
クラスの中では大人しくしていれば平穏な日が戻るのかと思った。
不二のポーカーフェイスはよりも数段上を行っている。
まさか二人がこっそり付き合っているなんて誰も分からないだろう。
そう思っていたのに、不二はかなり意地悪だった。
とすれ違う時、わざと視線を合わせるように身をかがめては
「大好きだよ」と囁いて来る。
廊下ですれ違う時などの手をほんの一瞬握り締めたかと思うと
何食わぬ顔で追い越していく。
そのたびに顔が赤くなってはいないだろうかと
やきもきするのはだけなのだ。
沈黙は金、されど不二の目はいつだって雄弁に語りかけているのだ。
いつまで黙っていられる?
The end
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2012.11.16.