その席は教室の一番後ろの窓際。

いわゆる一番目立たない一等席。

そう、一等席・・・。

      彼に一番近い席だった。

  






        
君の背中








 「席、変わってやろうか?」

私と彼が初めてちゃんと会話したのは
一学期の一番最初の席替えの時だったと思う。

窓から見える並木がきれいで
HRの委員決めも適当に聞き流していたら
前の席の跡部が振り返って聞いてきた。

思えば1年から3年までずっと同じクラスだったのに
会話らしい会話をしたのはこの時が初めてだったなんて
驚くほど貴重だ、なんてぼんやり思った。

でも跡部はいつも忙しかったし
私なんかとは別世界の人だったから
眩しく思っても近づこうなんて思いもしなかった。

そのせいかどうかはわからなかったけど
私と跡部の距離はいつも教室内の対角線上の端と端だった。


 「えっ? なんで?」

 「お前、眼鏡掛け出したんだな。
  俺の後ろだと余計見えにくいんじゃねーのか?」

穏やかに笑う跡部の端正な顔に見慣れてるはずでも
この至近距離ではやっぱり内心穏やかと言う訳にはいかない。

それでも私は頬杖の姿勢を正す事もしないで
わざと面倒臭そうに答えた。

 「全然大丈夫。
  黒板が見えにくいってことは
  先生からも見えにくいって事だし。
  跡部君の背中が格好の隠れ蓑だよ。」

私がそう言えば跡部は「そうか。」と一言返しただけだった。





跡部の背中は広くて大きかった。

当たり前のように他の男子と同じ制服だというのに
その背中はとてもかっこよく見えて
私は厭きることなく一日中その背中を
誰に咎められることなく好きなだけ眺めていた。

跡部の所属するテニス部は地区大会や関東大会で勝ち続け
やがて地元の新聞にもその活躍は常時載るようになり
跡部はますます、私と同じクラスメイトだなんて思えないほど
芸能人並に人気を有する人になってしまった。

でも、それでも授業が始まると
私の目の前には普通の跡部が座っていた。

たまに頬杖を付いて、退屈そうに先生の講義を聞いてるだけの時もあったし、
そうかと思えば意外にも真面目に板書をノートに綴っている時もあった。

そんな跡部を後ろから観察しながら独り占めできる私は
それだけで充分楽しめた。




 「跡部〜。」

そんな跡部の背中を見ているのが好きな私だったが
この席にはもうひとつ役得があった。

休み時間には跡部はわりと自席で読書している事が多かったのだが
反対に跡部のチームメイトたちは何かとこのクラスへ足繁く来る事が多かった。

だから普段部活を見学しに行ったりしない私でも
跡部のチームメイトの面々は見知っていたし
跡部とその仲間たちとのやり取りが面白くて
いつの間にか近くの席と言うだけで私もその輪の中へ
自然と入っている事もあったりして楽しみは少しずつ増えていた。


 「今日の数学、当たるんやけどな、
  やって来た宿題、忘れてしもーたんや。
  ノート、貸してくれへん?」

チームメイトの中ではダントツにこのクラスへ来る事が多い忍足が
慣れたもので私の席の隣へと腰掛ける。

彼は人懐こい笑顔で、いつも跡部の隣ではなく私の隣へと腰掛ける。

だから跡部も仕方なく後方へと体を向けることになり
私はいつも緊張しながらもそのちょっとした事が嬉しくて
忍足にはいつも心の中で感謝の念を送っていたりする。

 「お前、ノートなんかなくても然程困らねーだろ?」

 「ああ、まあ、ぶっちゃけそうなんやけど
  ノートないとかっこつかへんやん?」

 「ああ? 俺の知った事か!
  違う教科のノートで代用しろよ。」

大きな図体してるくせに忍足が跡部を構うのが面白かった。

そして、普段クラスメイトとはあまり話をしない跡部が
テニス部の連中とは言葉通りではなく
面倒臭がらずに相手するのも私には面白く見えた。

 「また、そない冷たい事言う〜。
  なあ、さん、俺、可哀想やろ?
  なんならさんのノート、貸してくれへん?」

 「えっ?」

 「さん、優しいから助けてくれるやろ?
  ほら、去年一緒の委員会で結構さん、
  いろいろと面倒な事、引き受けてくれてたもんなぁ。
  俺なんか部活が忙しゅうて全然手伝わんと悪いなあ、思うててん。
  それなのにさん、全然嫌そうにせんと、
  ああ、ほんまにええ子なんやなあって。」

にっこり微笑まれて私はたじたじとなる。

忍足の殺人的に妖艶な笑みはなぜか教室のあちこちで
女子たちのうっとりとしたため息を起こすほどだけど、
忍足と跡部のやり取りを見るのが好きな私にとっては
決して彼らの会話に積極的に入りたい訳ではないと言う思いがある。

特に忍足に好意的に話しかけられるのは
それが自分の勘違いであっても
跡部の前である以上私はどうしてもいちいち気になってしまう。

 「さん、字もきれいやし。
  って、なんで知ってるん、ゆー顔してる。
  ほら、委員会日誌、ちゃんといつも書いてたん、さんだけやったし。
  俺、時々読ませてもろうてたんやで?
  知らんかったやろ?
  だからな、さんのノート、借りてみたいなーなんて。
  俺はさんの丸っこい字、可愛い思うねん。」

 「あ、あの、でも・・・。」

苦手なタイプだと思う。

時々話を振られるのは楽しいけれど
自分が話の中心になるのはとても困る。

 「あかん。さんに断られたら俺凹むわー。
  ええやん。な、次の時間には返しに来るし。
  なんならお礼になんか奢ったるわ。」

矢継ぎ早に畳み掛けてくる様にどう断ろうかと
何の気はなしに跡部の方を見たら一瞬だけ目が合ってしまった。

怖いぐらいに射抜かれるような視線に驚いたけれど
忍足の言葉に私が困惑しているのが分かったのだろう、
跡部は自分のノートをばさりと忍足の目の前に投げ出した。

 「あれ、景ちゃん、ええのん?」

呆れた様な忍足の呼び名に不機嫌になったのか
跡部はもう体を前に向けていた。

 「忍足、てめーは五月蠅すぎんだよ。
  さっさと自分のクラスに帰ったらどうだ?」

不機嫌な跡部の台詞にクツクツと笑い返す忍足は
確信犯的な悪戯っぽい目で私にウィンクをしてきた。

 「何やねん、初めから貸してくれたらえーねん。
  そない気に食わんのやったら
  ちゃんと自分のもんにしときや。
  ほな、さん、ええ子やからまた遊んでな。」

そんな風に言う忍足の言葉は全然意味不明で
私がぽかんと忍足の後を見送っていたら
いつの間にか跡部が、また私の方を振り返っていた。

 「何、跡部君?」

 「お前な、忍足の言い草に気圧されてどーすんだよ?
  嫌なら嫌って言えねーのかよ?」

 「あっ、うん、ごめん。」

 「全く。大体お前、数学苦手だろ?
  宿題、ちゃんとやって来れたのか?」
  
私はびっくりして跡部の顔をうっかり凝視してしまった。

もちろん、3年間もずっと同じクラスなら
私が数学を苦手としてる事なんて
知りたくなくても分かってしまう事だろう。

でも、こんな風に心配されてるみたいな言い方、
跡部から言われるなんて思ってもいなかったから
嬉しい反面凄く恥ずかしくなって顔が熱くなってきた。

そうして跡部の顔を凝視してるって事は
そんな赤面してる今の顔を跡部も見てる事だとやっと気付いて
ますます恥ずかしくて俯く事になってしまった。

もう泣きたい位恥ずかしくて
勇気があればこのまま教室から逃げ出したかった。

そんな勇気もなくてぎゅっと唇を噛み締める。

 「ほら、ノート見せてみろよ?」

 「?」

俯いたまま私は自分の耳を疑った。

 「わからねー所は、俺が教えてやる。」





あれからずるずるとなぜだか跡部は数学の宿題を見てくれるようになった。

と言っても頭つき合わせて宿題を見てもらうなんて
そんな大それた事はできないから
そっとノートを出せば跡部が添削してくれるようになった。

そして解らない所は跡部の解説付きで細かく書き込まれて
ちょっとした参考書並みに分かり易いノートになって返って来た。

やがてテニス部が全国大会でベスト8に入った夏休みが過ぎ、
2学期になって久しぶりに跡部に会えると思って楽しみに自分の席に着いた時、
私はそこで初めてテニス部レギュラーが全日本選抜チームの
合宿のメンバーに選出されて当分学校に来ない事を知った。

ぽつんと空いた私の目の前の席に何ともやるせない気持ちが込み上げて来た。

ずっと見続けてきた跡部の背中がないだけで
こんなにも教室が広く感じるなんて驚きだった。

夏休みの間は仕方ないと思っていたから何も感じなかったのに
学校では当然の如く跡部に会えると思っていたから
酷く落胆している自分に自分自身が驚かされている。

好きなのだと。

誰もいない前の席を見てそう悟ってしまった。

そんな報われない恋をするなんて
バカとしか言いようが無かったけど
気付いてしまった気持ちはなかった事にはできなかった。

あれ程有名人である跡部とつり合う筈が無い事位分かっていたのに
数学のノートにびっしり書き込まれた跡部の文字が
あまりにも普通に私の日常に入って来ていたから
席の近さと同じように跡部を自分に近しいものと思い込んでいた。

でも今ここにいない跡部は確実に遠い存在だった。

声を聞く事すらできなくて
背中さえ見る事もなく、のろのろと色を失った時間が過ぎて行く。

たまたま席が近かっただけで
何も残されてない机の中が見えるたび
跡部が自分の近くにいた証なんてどこにもないような気がして
授業なんてまるで耳に入って来なかった。




そんな私の耳に突然入って来たのは
口に出す事のできない思い人の名前だった。

 「ねえ、どうする?
  誕生日も合宿らしいよ?」

 「ええ〜?じゃあ、机の中に入れて置いてもダメって事?」

 「だよねぇ〜?」

 「じゃあさ、合宿所に行ってみるとかは?」

 「それが、どこでやってるか教えてくれないらしいよ。」

聞き耳を立ててる訳じゃないけど
もうすぐやって来る跡部の誕生日の話だと思うと
勝手に息を潜めて聞き入ってる自分は
情けないくらい跡部に関するものに敏感になっている。

 「本人に渡せないなんてさー。」

 「えー、そんな事言って本人目の前にしたら渡せないって。」

 「そうなんだけどね。
  今年も部室の方に持って行くしかないね。」

 「だね。でもちゃんと跡部んちに運んでくれるんだから
  それでよしとしなきゃねー。」



10月になると女子の大半の話題は跡部の誕生日ではないか、
と思うくらい耳に入って来て私はますます気持ちが重くなっていた。

本人不在でもその人気は衰える事は無く
やがてテニス部の部室には跡部専用の
プレゼント受付箱なるものが備え付けられたらしい。

未だかつてテニス部の部室を訪れた事のない私には
その真偽を確かめる勇気は無かったけれど
それでも苦手な数学を教えてもらったよしみで
誕生日にはお礼を兼ねて何かしらプレゼントしようかと思ってもみた。

お店を渡り歩いて何を選んだらいいかと悩む日は続き
結局跡部に渡したいものが何も思いつかなくて
周りの雰囲気に流されてるだけじゃないかと冷静になったりもした。

それでも翌日ぽっかり空いてる跡部の席を目の当たりにすると
どうしようもない焦燥感に駆られたりもする。

コントロールできないモヤモヤした気持ちは
日毎に大きくなるばかりで
すっぱりと失恋できた方が何倍もスッキリできると思うようになった。

変に優しくされた記憶があるから
諦めようにも私から嫌いになることなんて無理に思えた。

苦しくて苦しくて息が詰まるほどの想いの果てに
後で思えばどうしてそんな行動に及ぶ事が出来たのか
自分でも理解しがたいものがあったけど
その時はそれしかないと思いつめていて
隣のクラスの滝の所に出向いた。



 「やあ、。どうしたの?」

 「滝に折り入って頼みがあるんだけど。」

ここまで口に出しても最後まで言い切るには勇気がいる。

滝の目が好意的でなければとてもじゃないけど続けられなかったと思う。

滝は数少ない男友達だ。

多分親同士が仲が良かったからその延長線上なのだろうけど
廊下ですれ違うだけでも私を無視することなく
いつも挨拶代わりに笑顔を向けてくれる優しさが滝にはあった。

 「本当に、こんな事、滝にお願いする筋合いじゃないんだけど。」

 「そうなんだ。でもがそこまで思いつめる程の事なら
  相談くらいお安い御用だけど?」

そう言って笑う滝にずうずうしいと思いながら頭を下げた。

 「滝がテニス部だって思い出して・・・。」

 「引退した頃に思い出すなんて酷いなぁ。」

 「うん、酷いよね。自分でも分かってる。」

 「それで?」

 「できたら・・・、跡部君に取り次いでもらいたい。」

驚いて息を呑む滝の気配が手に取るように分かる。

でも滝の声は何ら変わりがなかった。

 「跡部・・・ね。
  今、合宿中だよ?」

 「知ってる。だから滝に頼んでる。」

 「今日が跡部の誕生日だから?」

聡い彼はそう言ってゆっくりと息を吐いた。

呆れてるため息だったかもしれないけど私は必死だった。

 「うん。何も出来ないけど
  何もしないままが嫌だから。
  せめてちゃんとおめでとうって言いたくて。」

もう一度お願いしますと頭を下げたら
滝は「そうなんだ」と呟いたままそれ以上は何も詮索して来なかった。

あまりにも沈黙が長くてそっと顔を上げると
滝は携帯を取り出してメールを打っていた。

「返事は来ないかもしれないよ?」という呟きに
やるだけやってダメなら諦めるからと私は小さく答えた。

放課後の滝のクラスにはもう誰も残っていなかった。


やがて小さく震え出した携帯に私の目は釘付けになった。

滝は口元に笑みを浮かべて携帯に耳を当てた。


 「悪いね、呼び出して。
  今、電話、大丈夫かな?

  ああ、まだ教室。

  そうだね、後で部室に寄ってみるけど・・・。

  待って、今代わるから・・・。」


差し出された携帯を耳に当てて私は震えが止まらなかった。

 「もしもし、跡部君?」

 「か?」

 「うん。」

それだけで胸が一杯になる。

 「今、電話してても平気?」

 「ああ。」

声が聞けただけでもう充分な気がしてくる。

この上何を望むと言うのだろう。

罰当たりな事は思わない方がいいのではと思ったけど
黙ったままの私に対して跡部は電話越しに笑ってきた。

 「どうした?
  数学の分からない所でもできたのか?」

 「ううん。」

 「から電話して来るとは思わなかったぜ?」

 「うん、私も。」

 「なんだ?」

 「どうしても、跡部君の・・・声が聞きたかったから。」

我ながら大胆だと思った。

恥ずかしくて滝に背を向けたけど
それでも私の耳で一生懸命跡部の声を拾おうと
痛いほどぎゅっと携帯を押し付けてみる。

彼の息遣いまで聞き漏らさないように。

 「嬉しい事を言ってくれるぜ。
  どうせなら・・・。」

 「な、何?」

 「今日しか言えない言葉を言えよ。
  俺のために。」

跡部の甘い囁きに涙が出そうになる。

 「いいの?」

 「ああ。」

 「あ、跡部君、誕生日おめでとう。」

感極まってもうそれ以上言葉が続かなくなってしまったら
電話越しにため息を付かれてしまった。

 「お前な、いきなり電話されて
  誕生日おめでとうの後に泣かれたら
  心配で合宿どころじゃなくなるだろうが。」

 「ご、ごめん・・・。」

 「まあ、いい。
  俺もお前の声が聞きたかったから充分だ。
  滝にお前のケー番をメールで送らせろ。
  夜、電話してやるから。」

 「う・・・ん。」

 「。」

 「うん?」

 「嬉しかったぜ。」




目を閉じるとそこに跡部の背中が見えた。

大きくてかっこよくて
いつも私の前にいて。

声を掛ければきっといつでも振り返ってくれる。

そんな気がした。








The end

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☆あとがき☆
 跡部、誕生日おめでとう。
どうしても跡部の誕生日をお祝いして欲しいと
お願いされちゃいました。
力入ってなくてごめんね?(笑)
ちょっとそこは自覚してます。
苦手なんだけどまたそのうち挑戦します・・・。
2009.10.4.